出合頭《であいがしら》にムクが一声吠えると、
「まあ、ムク」
 バッタリ行会った先方の人影が、狂喜の叫びを立てて、この犬に抱きついて、
「ムク! 遅かったねえと言いたいけれども、考えてみると、お前の来るのが遅かったのがよかったかも知れない、お前の来ることがもう少し早かろうものなら、かえって大変なことになったかも知れない、今となっては……どうしていいか、わたしにも分らない」
と言ったのは、まごうべくもないお松の声であります。
 無論、この絶望に近い呼び声に対して、なんらの表情をも返すことのできない畜生の身ではあるけれども、ある一種の意気込みを示していることだけはたしかであります。
 この犬の性質と、挙動と、それから性質と挙動から起る表情を知り抜いているはずの人には、夜であろうとも、表情の機関が働こうとも働くまいとも、その気合は充分に受取れるのです。代って言ってみれば、
「お松さん、どうしたというのです、あなたにも似合わないじゃありませんか、さあ、どこへなりとわたしを御案内して下さい、あなたが行ききれないところへも、わたしなら行きます――あなたが相手になれない相手にも、わたしなら、なることができるかも知れません、さあ、わたしを、どこへなりとやって下さい」
 こう言って、息をきりながらも、落着いて促し励している呼吸は、たしかなものです。
 それでもお松から、行けとも、止れとも命令の出ないのをもどかしがって、
「ね、あなたは、七兵衛おじさんを尋ねて、こんなに心配苦労をしているのでしょう、わたしもそれが急に気にかかってたまらないから、それで、ここまで抜けがけをして来たのですよ、七兵衛おじさんはどうしました、あなたが暗示をさえ与えて下さるなら、わたしならきっと嗅ぎつけて上げます、さあ、早く」
 こう言って、ムク犬から促し立てられていることはたしかに受取れるが、お松はそれに、指図も、命令も下す気にはなれないようです。
「ムクや、お前の志は有難いけれど、実は、わたしにも、何が何だか、ちっともわからないのですよ。どうも、この胸は心配で心配でたまらないけれども、また、七兵衛おじさんが、そう滅多に人に捕まるようなはずはないとも思われるから、安心しているところもあるのです。それですから、お前のような強い犬をやって、もしあやまってお役人を傷つけたりなんかして事壊しになってはいけないから、それで、せっかくのお前の好意に対しても、わたしはなんにも言えないの――けれども、有難うよ、お前は本当にいい犬ですね、いつもこんなにしてもとの御主人のお君さんを護っていたのですね。でも……お前ほどの神《しん》に通じた強い犬でも、それでも人間の運命というものは、どうすることもできませんでした、お君さんの身を守ったけれども、命を助けることはできませんでした。今、その親切を、わたしたちにしてくれる……どうして、わたしがここにいることがわかったのか、それをお前にたずねてみるのも野暮《やぼ》ですね、お前には、ちゃんと未然がわかる働き、神通力《じんずうりき》というものがあるって、みんなそう信じているから間違いはない、せっかくだけれど、ここは諦《あきら》めて、田山先生に御相談してからのことにしましょう。宿へ帰りましょう、もう先生も帰っていらっしゃるでしょうから……」
 思慮あるお松は、ムクのせっかくの加勢を得たりとして、あの臥竜梅の場の捕物の方へ引きかえすこともしないし、また、その人数が引きあげて行ったらしい方向をムクと共に追おうともしないで、ムクを従えて、大きな不安のうちに、一種の分別と、沈着とを以て、また海岸の方へと出てしまいました。

         二十二

 風流韻事《ふうりゅういんじ》で、いい気持になりきった田山白雲が船を漕《こ》ぎ戻させて、宿へ帰って見ると、果して非常事がありました。
 お松から一伍一什《いちぶしじゅう》を聞き取った上、改めて瑞巌寺まで行って問いただしてみると、だいそれた、この「つわ者隠し」の天井に賊が潜んでいたのを、張込んでいた仙台の手のものに捕まってしまった。
 たしかに捕まったのか――ええ確かに手を後ろへ廻されて縛られてしまいました。最初はずいぶん、暴れましたけれど、仙台の方に、仏兵助《ほとけひょうすけ》という親分がいて、それがとうとう右の怪賊を生捕ってしまったに相違ございません。
 それを聞くと、田山白雲もがっかりしたが、お松のしおれ方は目もあてられないほどでありました。白雲はそれを慰めかねていたが――
「よし、お松さんの実見したところによると、果して七兵衛おやじが捕まったのか、疑問を存する余地は充分ある。捕まったにしても、つかまらないにしても、その罪状というのが明瞭でないのだから、いずれ放免されるにきまっているが、世間には人違いでヒドイ目に逢
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