はよくわかってくると共に、自分というものの不在中を残念がらずにはおられない。
 なあに、あのウスノロ如きは、自分がいさえすれば頭から威圧して、文句は言わせもしないのだが、船長としての責任ある地位で、かけがえのない無頼の労働者を、だましだまし使用する苦衷は、自分のようにそう一本調子にいくものでないことを、白雲といえども駒井のために推察するだけの思いやりは持っている。そこで、白雲は身を乗出して言いました、
「うむ、そのこともあったっけな。許し難い奴だ、あのマドロスめ――もう一ぺん締めてやらなければ。よしよし、その方も拙者が引受けよう、七兵衛おやじの方といっしょに、ウスノロの奴も近いうちに見つけ出して、有無《うむ》を言わさず、これへ引きずって来てみましょう。七兵衛おやじは思慮があるだけに雲をつかむようだが、ウスノロの奴は、なあに直ぐと、とっ捕まえますよ。第一、あの赤髯《あかひげ》と碧《あお》い眼で、日本娘さんと道行なんて、ドコまでそんなフザけた洒落《しゃれ》が利《き》くものか、いくら奥州の果てにしたところで、あれで晴れての道中ができたらお慰み、どこかに隠れ忍んでいるうちは無事だが、ウスノロとあの娘さんとでは、やがて頭も尻尾も丸出しにするのは眼の前だ、或いは早く追手がかかってくれるようにと待っているかも知れない。これは、船頭君の腹立まぎれではいけない、拙者が行きましょう。拙者が行って、ズルズル襟首を持って引きずって来ます。ウスノロの奴めまた泣くだろう、大きな図体をしてザマはない」
「田山先生にあっちゃかないません」
 昂奮しきった船頭も、白雲画伯がウスノロを捕えて引きずって来る時の光景を想像して、多少おかしくなったらしい。
 そこで白雲は、駒井を促して言いました、
「駒井氏――では、そういうことに願いましょう、拙者ならば、旅には慣れているし、手形も持っている――ここまで来た以上は南部領へも足を踏み入れてみたい希望もある。この船の休養と修理の間を、拙者は右の通り一石……三鳥の獲物《えもの》のため、また旅に出ましょう」
 船の休養と修理のためにも、少なくとも約一二カ月はここに碇泊《ていはく》している必要を聞き知っている白雲は、ここでその期間を利用し、行方不明の二人の船族と、それからなお進んでは風景の見学と、つまりいわゆる一石三鳥の妙案を独断的に提出すると、駒井甚三郎も、
「では……そういうことにお願いしますかな」
 白雲一人に使命を託することが、粗放のようで、実は最も安全にして確実な方法だと思案したのでしょう。お松はムク犬と共に、ぜひ白雲先生のおともにと申し出たけれど、それはかえって辛抱する方がおたがいのためだということを説得されて、それが呑込めない子でもありませんでした。
 かくて白雲は、例のいでたちを以て、その翌朝、ひとりこの船を立って、一石三鳥の目的のために出かけることに評議がまとまりました。
 その出立の前に当って、賢明なるお松は、こういうことを思案しました――そんなこんなの出来事のために、自分の心に大きな悩みを持たせられているけれども、それよりも、こんなことのために、船長の意気を沈ませてはならないこと、船中の人々の気を腐らせてもいけないということ、だから、自分がまず誰よりもつとめて快活にして、船長をはじめ皆の気を引立てることにつとめなければならない。それには、ひとつこの人数を会して、陽気な慰安会を開いて、一つは田山先生の門出を祝し、一つは船中の意気を盛んにしようとの案を立て、それを駒井船長と白雲画伯とに申し出で、欣然《きんぜん》同意を得ました。
 この慰安会は船中の人だけに限らないで、せっかくのことに、この港に碇泊しているすべての船と、この港附近のあらゆる漁村に触れを廻して、参会観覧を許すということを提議して、お松が委員長で準備を進めました。
 立役者《たてやくしゃ》には清澄の茂太郎というものもあれば、お角さん仕込みの江戸前の、ムクの縄ぬけ[#「ぬけ」に傍点]輪ぬけ[#「ぬけ」に傍点]の芸当というのも、ここへ持ち出して悪いということはない。その他、乳母《ばあや》、船頭さん、金椎《キンツイ》さんまでが、どんな隠し芸を持っていようともはかられぬ。お松さん自身は委員長としてのほかに、太夫元《たゆうもと》、狂言作者、舞台監督等のすべてを背負って立たなければならないが、事と次第によっては、舞台上の一役をさえ買って出なければならない都合になるかも知れぬ。
 かくてその翌日――
 果して当日の慰安会は、清澄の茂太郎の三番叟《さんばそう》を以てはじまりました。
 田山白雲も覚束ない手つきで、手品を一席やりました。
 登の乳母が三味線をひき、房州の船頭衆が唄いつ踊りつしました。
 見物は船の甲板上にいっぱいに溢《あふ》れたけれども、他の船からも、
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