さてはきのうおれたちをだましたのはこの婆だな、と言って慾タカリ婆をさんざんにハタいて瘤《こぶ》だらけにしてしまったとさ」
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オイセとチョウセ
オイセとチョウセ
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老女の昔話の一くさりが終ると、きっかけに茂太郎がまた頓狂な調子を上げましたが、あたかもよし、その時に月が上り出したのです。
「ああ月が――」
船のうちが、ひとしく、いま海波の上にゆらゆらのぼりかけた月を見て、鳴りをしずめてしまいました。
田山白雲が水墨を取って、大きく紙面にうつした松島月影の即興図に、玉蕉女史は心得たりとあって、さらさらと次の絶句を走らせる。
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高閣崚※[#「山+曾」、第4水準2−8−63]山月開(高閣|崚※[#「山+曾」、第4水準2−8−63]《りょうそう》として山月開く)
倒懸清影落江隈(倒《さかし》まに清影を懸けて江隈に落ち)
欲呼漁艇分幽韻(漁艇を呼ばんと欲して幽韻を分つ)
好就金波洗玉杯(好し金波に就いて玉杯を洗はん)
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田山白雲は、それを見て、この閨秀詩人は字を合わせ韻《いん》をさぐることに、多くの苦心をせず、嚢中《のうちゅう》のものを取り出すように、無雑作《むぞうさ》にこれだけの詩を書いてしまったことに舌を捲かずにはいられません。婦人にして漢詩を作るということは、極めて珍しいことに属している。文鳳《ぶんぽう》、細香《さいこう》、采蘋《さいひん》、紅蘭《こうらん》――等、数え来《きた》ってみると古来、日本の国では五本の指を折るほども無いらしい。
だが、この当面の高橋玉蕉女史は、右の五本の指のうちのいずれに比べても、優るとも劣りはしない。更にその第一流と謂《い》えると考えざるを得ないで、そうして徐《おもむ》ろに酔眼をみはって、一応、右の絶句を黙読してから、さて、朗々として得意の吟声を試み出でようとしました。
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高閣崚※[#「山+曾」、第4水準2−8−63]トシテ山月……
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その発声の途端に、別の方から、また一つの吟声が無遠慮に飛び出して来ました。
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春江潮水、海ニ連ツテ平カナリ
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と、澄み渡った声で、白雲の出ばなを抑えたものがあったものですから、唖然《あぜん》として一時沈黙することのやむを得ない事態に至りました。その内容節調にして穏かなる二重奏でない限り、それが同時に起るとすれば一方が一方を乱すか、或いは一方が沈黙してしまうか、両者同時に相譲るかでなければ始末のつきようはずはないのであります。礼儀としてもこれは許せないことですが、相手が箸にも棒にもかからない代物《しろもの》だけに、白雲も面《かお》負けがせざるを得ません。
さすがの白雲をして、せっかくの朗吟を中止沈黙のやむなきに至らしめた無作法者の、清澄の茂坊であること申すまでもなく、白雲をして、中止沈黙のやむなきに至らしめたことをいいことにして、茂太郎がいよいよ独擅《どくせん》を発揮し、独擅といっても、元はといえば、内容節調みな白雲先生の直伝《じきでん》によるところのものに相違ないが――
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海上の明月、潮《うしほ》と共に生ず
ゑんゑんとして波に随ふ千万里
何《いづ》れの処か春江月明なからん
江流ゑんてんとして芳《はう》てんをめぐる
月は花林を照して皆|霰《あられ》に似たり
空裏の流霜飛ぶことを覚えず
汀上《ていじやう》の白沙見れども見えず
江天一色繊塵なし
皓々《かうかう》たり空中孤月輪
江畔|何人《なんぴと》か初めて月を見し
江月いづれの年か初めて人を照せし
人生代々窮まりやむことなく
江月年々望み相似たり
知らず江月|何人《なんぴと》をか照す
ただ見る長江の流水を送ることを
白雲一片去つて悠々
青楓浦上愁ひに勝《た》へず
誰《た》が家ぞ今夜|扁舟《へんしう》の子は
何れの処ぞ相思ふ明月の楼
憐れむべし楼上|月《つき》徘徊《はいくわい》す
まさに離人の粧鏡台を照すべし
玉戸簾中まけども去らず
擣衣砧上《たういちんじやう》払へどもまた来《きた》る
此時《このとき》相望めども相聞えず
願はくば月華を逐《お》うて流れて君を照さん
鴻雁《こうがん》長く飛んで光わたらず
魚竜|潜《ひそ》み躍《をど》りて水|文《あや》をなす
昨夜かんたん落花を夢む
憐れむべし春半《しゆんぱん》家に還らず
江水春を流して去つて尽きんと欲す
江潭落月《かうたんらくげつ》また西に斜めなり
斜月沈々として海霧《かいむ》に蔵《かく》る
碣石瀟湘《けつせきせうしやう》限り無きの路
知らず月に乗じて幾人か帰る
落月情を揺《うご》かして江樹に満つ
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これだけの詩を一句も余さず、清澄の茂太郎が
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