、吟じ来り吟じ尽してしまったものですから、今度は、天地が動き出したほどに玉蕉女史が驚かされてしまいました。
まあ、この子は、何という子だろう、化け物ではないかしらとまで呆《あき》れ、
「まあ、田山先生、あの子は……」
と言ったきり、あとの句がつげませんでした。
「は、は、は、は」
と、テレきっていた田山白雲が高く笑いました。そうして釈明して言うことには、
「驚いてはいけません、あれが反芻《はんすう》の反芻たる所以《ゆえん》なんです、意味がわかって歌っているんじゃありませんよ、消化しきれない頭の中のウロ覚えが、興に乗じて飛び出して来るだけのものですが、知らない人は、ちょっと驚かされます」
「ですけれど先生、わけがわかるにしても、わからないにしても、これには驚かないわけにはゆかないじゃありませんか、勧学院の雀どころじゃありませんもの」
「は、は、は――門前の小僧のためにしてやられましたね」
「ほんとうに門前の後世|畏《おそ》るべしでございます、田山先生のお仕込みのほど、全く怖るべきものでございます」
玉蕉女史は、改めて、船べりをさまよう清澄の茂太郎を見直しました。が、茂公は、この閨秀《けいしゅう》の詩人をして舌を捲かせていることはいっこう御存じなく、例の般若《はんにゃ》の面は後生大事に小脇にかかえて、なおしきりに月に嘯《うそぶ》きながら、更に続々となんらかの感興が咽喉《のど》をついて出るのを、しばらくこらえているようでしたが、勢いこんで、
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とっても
とっても
勿体《もったい》なくて
上られえん
とっても
とっても
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右のように喚《わめ》き出したかと思うと、
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さんさ時雨《しぐれ》か
かやのの雨か
音もせで来て
ぬれかかる
とっても
とっても
勿体なくて
上られえん
とっても
とっても
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とうとう船べりで、足拍子を踏んで、片手を振り上げながら、面白おかしくおどり出してしまいました。
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とっても
とっても
勿体なくて
上られえん
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その狂態を指して田山白雲が、
「あれです――初唐の古詩をああして朗々とやり出すかと思えば、とりとめもないあのでたらめをごらんなさい、さんさ時雨を取入れたかと見ると、もう、たったいま耳食《じしょく》の昔話が織り込まれているのであり、何物でも一度|彼奴《きゃつ》の耳に入ったら助かりません――あの踊りだってそうです、無雑作のうちに、どこか節律があるんでしてね。だから、見ていて、なかなか面白いです。つい我々まで、あいつの踊りに釣込まれてしまうのです。黙って見ていてごらんなさい、興が乗り出して来たようですから、何をやり出すか見物《みもの》ですよ、何かの感傷で反芻が引出されると、全く思いがけない離れ業が飛び出すのです。御当人に分っていないのですから――歌う意味が分っていないのは勿論、この次に何が飛び出すかの予測が、歌って踊る御当人にもついていないのですから……」
白雲がこう説明して、この際、玉蕉女史に、暫く鳴りをしずめて、かの童子の出鱈目《でたらめ》に制限を加えないように心づかいを慫慂《しょうよう》していると、
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玉だすき
うねびの山の
かしはらの
ひじりの御代ゆ
あれましし
神のことごと
かたへより
いやつぎつぎに
つがの木の
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「そうら、ごらんなさい――さんさ時雨《しぐれ》が万葉に変りました。この次には、カッポレや隆達が飛び出さないとも限りません」
白雲が囁《ささや》くと、果せるかな、歌い手が急に韻文から散文に直下して、それから演説口調になりました、
「皆さん、今晩の月を見て、皆さんのお心持はいかようにお感じなさいますか。昔の歌人は、月見れば、ちぢにものこそ悲しけれ、我身一つの秋にあらねど……とうたいました。御同様にわたくしもなんとなく、悲しい思いがいたします。これはおそらくどなたでも、同じ思いでございましょうと思います、日本の人も、唐《から》の人も、それから西洋の人も……西洋のゲーテという人はこう言いました、楽しい、悲しい昔の思い出が心に満ちて、わたしはこの二つの世の間に、ひとり今宵さびしくさまよいます――と。皆さん、人情には変りありません、古今東西――眼の色が違うからと言って、月の色は変りません、月を見て感ずる心は同じだろうと思いますが、皆さんはいかがです」
これは、もとより、玉蕉女史に向って呼びかけたのでもなく、白雲に向って訴えたのでもないのです。月と海とを聴衆に見立てて、その波がしらに向って無心に演説を試みはじめたのです。
かと思うと、格調急に変じて、
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ゼ、クイン、オブ、ナイト
シャ
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