ってはいるが、土木建築となると、さほどに興味がないし、絵画彫刻となると、なお一層でした。
 ところが、こうして見ると、この寺を建てた政宗の規模を思い起さないわけにはゆきません。
 瑞巌寺は、寺ではなくして城だ――表は寺の構えにしてあるが、これを建てた最初の政宗の規模は城である。陽寺陰城とでもいうのかな、昔の大名が城としては持てないのを、寺として置いて、他日に備えるという用意は、この瑞巌寺に限ったことではない――加藤清正なんぞもその著しいもの、大名のうちの殊に大きなやつは、みんなそのくらいの用意を持っていた。
 あの当時は、造船の見学に多忙で、名所旧蹟の探訪に疎《おろそ》かでもあったが、今度はひとつその辺から瑞巌寺の規模を見直すかな、城としての寺の構造、要害としての地形を、明日になったらもう一ぺん見直してみよう。
 こうして駒井は眠られないままに、高い天井を眺めて、うつらうつらと伊達政宗のことを考えているうちに、ふと、この寺に「御座《ぎょざ》の間《ま》」があって、そこへは政宗が、いかなる貴賓をも立入らしめなかったという由緒の一間がある。といって、「御座の間」とある以上は、何かひとたびその名を空しうせしめざるほどの期待がなければならない。ひそかに伝うるところによると伊達政宗は、いつかこの土地に天子の行幸を期待し奉る大望があって、このために、特にこの「御座の間」が設け備え奉られたのだということだ。
 ありそうなことだ。
 それともう一つ、この瑞巌寺の天井のいずれかに、千人の甲を伏せて音もさせない、俗に「武者隠しの間」があるそうだ。そういうことは必ずしも当てにならないが、とにかく、明朝はひとつこの寺の構造をもう一ぺん見直してみよう。絵画彫刻の類も一応――いやこれは自分には少々畑違いだ、いずれ白雲画伯を紹介してよこすことにしよう――というようなことを感じているうちに、それでも瞼《まぶた》がようやく重くなってくるのはやむを得ないことです。もうかなりの夜更け、先晩、田山白雲が仙台城下で、美にして才ある婦人と語って興が乗り、ようやく離れ座敷で眠りに落ちようとしたのとほぼ同じぐらいの時刻でありました。
 唐戸《からと》のような大きな障子が、すうーっとあいて、有明の行燈《あんどん》の中が、にわかにまたたきをはじめました。
「誰じゃ」
 その時の駒井の驚き方も、あの時の白雲の驚き方も全く
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