ものですから、確証あってこの品と言い切るものは一人もなかったのです。
御家の宝物の品調べは、そんなようなわけで、何の根拠もない無責任な下馬評のはやるに任せているが、そのままで済まされないのは、この大胆不敵なる曲者《くせもの》の詮議であります。観瀾亭を中心として続々集まった諸士、顔役も、さすがにこの点は抜かりがありませんでした。
一方、御宝物が厳重なる守護をもって送り返される前後より、たちどころに非常線が張られたのは申すまでもありません。
「まだ決して遠くは逃げていない」
と、炭部屋もどきに、縁の下の藁《わら》の寝床に手を触れてみた一人の諸士が言う。
「さりげないことにして網を張っていれば、戻って来る」
そこを附込んで、虚をもって実を討たんと策を立てるものもある。
それに応じてまた一方、いずれにしても、この非常線の非常なることを知って、それに処することに抜かりのあるべき七兵衛でないことはわかっているが、事が全く予期しなかった流れ矢一筋から来ているだけに、存外、転身の自由が利《き》かないおそれはあります。
でも、その日の暮れるまでは、犯人がつかまったというなんらの報道もなく、仙台城下の内外の隠密《おんみつ》が、密々のうちにいよいよ濃度を加えることほど、彼の身元が心もとないと言わなければなりません。
十四
こういう空気の真只中へ、駒井甚三郎がおともを一人連れただけで、仙台城下へ乗込んで来て、別段|咎《とが》めだてを受けなかったということは、不思議に似て不思議ではありません。
それは、駒井とこの土地とは、古い馴染《なじみ》があるからのことで、その由緒《ゆいしょ》を語れば、今より約十年以前、この仙台藩で開成丸という大きな船を造った時にはじまるのです。
その時に、江戸から三浦乾也が来て、仙台のための造船の一切の監督をしてやりましたが、当時、一青年学徒としての駒井甚三郎は、船を造る興味と研究のために、わざわざここへやって来て、その船で江戸までの廻航に便乗《びんじょう》したということがあるというわけでした。
ですから、駒井にとっては、この地は曾遊《そうゆう》の馴染があって、その当時、藩の要路にも充分の懇意があったものですから、相当の気安さで旅行もできるし、また石巻、松島、塩釜、仙台の間は、通学の往復路のようなものでしたから、少し立入れば、今で
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