い人影が、むくむくと湧いて来る。七兵衛は身をもって遁れるよりほかは、この際、術《すべ》のなきことを覚りました。

         十三

 それから後、果して、一筋の矢より、ずっと大きな獲物を発見した諸士たちの驚愕は非常なものでありました。大がかりで御殿の上へ持ち出して見ると、それは金光の古色を帯びた名将の兜《かぶと》であり、蒔絵《まきえ》の箱に納まった軸物であり、錦の袋に入れられた太刀《たち》であり――一筋のそれ矢が射出した獲物としては抜群なる手柄であります。
 ただ抜群なる手柄だけでありさえすれば何のことはないのですが、実は、これらの物体は皆、観瀾亭の床下にあるべき品ではなく、五十四郡の伊達家の宝蔵の奥深く存在していなければならないはずの物体のみでありました。
 最初の諸士を中心として、松島のすべて、塩釜方面と瑞巌寺《ずいがんじ》の主なる面々が、みんなこの観瀾亭に集まって、縁の下の獲物の検分に移ると、舌を捲かないものはありません。
 これは検分すべきものでなくして、拝観すべきものである。拝観も容易にすれば眼のつぶれるべきほどの「御家の重宝」ということに一致して、とにかく、無下《むげ》なるものの口の端《は》にものぼらない先に、この宝物の御動座がなければならぬ。
 釣台にのせられて、これが非常な警護をもって、仙台より城内へ運び去られたのは久しい後のことではありませんでした。しかし、この大きな獲物の内容に就いては秘密に附されただけに、松島から青葉城下へかけて、さまざまの下馬評と、見て来たような当て推量が、事実らしく伝えられたのは是非もありません。
 この宝物こそ――伊達家秘宝の一つ、三宝荒神の前立《まえだて》のある上杉謙信公の兜だったというものもあります。いやいや楠木正成卿の兜だというものもあります。そうではない、伊達の大御先祖の軍配であったという者もあります。いやいや名代の武蔵鐙《むさしあぶみ》に紫|手綱《たづな》でござりました、という者もあります。長光《ながみつ》の太刀だというものもあれば、弁慶の薙刀《なぎなた》だと伝える者もあります。軸物は世尊寺家の塩釜日記だとか、古永徳の扇面であったとか、ついには王羲之の孝経であったというような説が、紛々として起ったけれど、事実、誰も現品を見たものはない。縁の下から出て、一路御宝蔵へ逆戻り、いわば闇から出て、闇へ消えたような
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