なら知らぬこと、今まであの騒ぎを知っていながら――一言も、この子の伴奏がなかったことは不思議中の不思議。それを今まで不思議とも感じなかったほど、自分たちは何かに制せられていたことを、いま気がついて見ると、やや明け方の光で見たこの少年の面色《かおいろ》が、いやに沈み切っていることに、またなんとなく胸を打たれないわけにはゆきません。
「いったい、お前、そこに何していたの、どうしたんです」
「あたいは、七兵衛おやじを見つけ出そうとして、ここに一晩中ながめていたの」
「一晩中?」
「ところが、七兵衛おやじの姿が見えません、何をおいても見えなければならないはずの七兵衛おやじが、来ていないことを見ると……」
「だってお前、この闇の中で……」
と言ったが、お松はこの非凡な少年が、暗い中でもけっこう見える眼を持っていたのだということに気がつきました。
そうして、この少年は、夜目遠目のきく非凡な眼を以て、夜もすがらここに立番をして、一心不乱に七兵衛おじさんの来ることを期待していたのに、それが酬《むく》いられないことによって、この痛心の面《おもて》があり、その一心不乱のために、さしも喧囂を極めたマドロス騒動の一幕にも、振向かなかったものに相違ない。
それほどまでに、七兵衛おじさんというものの来ることと、来ないことに関心を置いているこの少年。それは、多少とも縁ある人の去就に関心を持つことは人情には相違ないが、この少年が、これほどまで七兵衛おじさんを待兼ねている、それを思うと、自分の方がもう一層、それをなつかしがらなければならない義理でもあった――とお松は、ここで七兵衛の安否について、この少年の懸念《けねん》を頒《わか》つ心になってみると、この少年のなんだか沈んだ面色を見るにつけて、なんとなし、また一種の不安がこみ上げてくるのを如何《いかん》ともすることができませんでした。
「ここへおつきになることが遅いなら遅いでよいが、何かまた道中に変事があったのでは……あのおじさんに限って、旅に慣れているから、万々間違いはないと思うけれども……」
こう言っているうちに、そのなんとなしの不安が、いよいよ募《つの》ってくるものですから、茂太郎の傍を立去りかねているうちに、駒井は、もう一人で自分の部屋へ帰ってしまいました。といって、それ以上どうすることもできないお松は、茂太郎をなだめすかすほかの術《す
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