たわけじゃないから、もう一休み、ゆっくりと寝ましょうよ、ね、マドロスさん……」
 それは、兵部の娘の声であります。この女性の声が乱闘の中へ流れ込んだものですから、それで獣の噛合《かみあ》いのような渦巻がいくぶん緩和されたものでありました。
 それを聞くと、甲板の上で、駒井甚三郎とお松とが、言い合わせたように足を止めていると、マドロスの声で、
「お嬢さんと、寝る、寝る、よろしい、寝る、寝る、よろしい、チーカロンドン、ツアン、バツカロンドン、ツアン」
 急に御機嫌が直ったマドロスが足踏みおかしく、よろよろとよろけた体を、兵部の娘に持たせている様子が手にとるようです。
[#ここから2字下げ]
もえさんと
寝る、寝る
よろしい
チーカロンドン
バツカロンドン
ツアン
[#ここで字下げ終わり]
 まさしく茂太郎の株を、この不埒《ふらち》なるマドロスめが奪って、そうして、兵部の娘にあやされながら、その寝室の方へと転げ込んで行く様子が、いよいよ手にとるようです。やがて一切の喧囂《けんごう》が拭うたように消え去ってしまいました。
 甲板の或る一点に、申し合わせたように足を止めた駒井甚三郎とお松は、そこで面《かお》を見合わせました。
 けれども、駒井の面にも、お松の面にも、まあこれで安心という快い色は見えませんでした。そうして二人とも、なんとなく興ざめ面で、無言にとって返さなければなりません。
 お松は、ここでちょっと駒井に取りなす言葉のきっかけを失った思いです。事実、この際、もゆるさんが、あの人を自分の寝室に引取ってくれたから、それでようござんしたとも、いけませんでしたとも、お松としては言えなかったものですから、そのまま暫く無言で、船長室へ引返す駒井甚三郎のあとに従い、無言でたじたじと引返すよりほかはありませんでした。
 そうして、お松は親柱のところへ来ると、また、思わずギョッとして立ちすくんでしまい、
「まア――」
 檣柱《ほばしら》の下の俵を積んだ上に、人が一人、黙って坐り込んでいる。
「茂ちゃんじゃないの」
「あい」
「まア、お前――」
 お松は、呆気《あっけ》にとられました。出鱈目《でたらめ》のうちの出鱈目、饒舌《じょうぜつ》のうちの饒舌である清澄の茂太郎が、ほとんど化石の彫刻みたように、チョコンとしてその俵の上にのせられたもののように坐っていたからです。
 熟睡していた人
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