べ》を知りません。
「茂ちゃん、そう取越し苦労をしたって仕方がありません、いつまで待っていたって、来る時でなけりゃ来やしませんから、休みましょうよ、まだ明るくなるまでには充分時間がありますから、下へ行ってゆっくり休みましょう。わたしも、なんだか、まだ寝不足だから、もう少し休ませてもらいましょう」
マドロスが兵部の娘につれられたのとは期せずして同工異曲に、お松は、茂太郎を引っぱるようにして自分の船室へ連れて行ってしまいました。
そこで、船の上下こそ、今度は全く静かなものになりました。茂太郎も、存外|素直《すなお》にお松の部屋へ来て、その一隅の寝床へもぐり込むと、早くもすやすやと寝息が聞えます。
騒擾事件《そうじょうじけん》の発頭《ほっとう》たるマドロスも、鼻唄の声さえ、鼾《いびき》の声さえ、洩れないほどに納まり込んでしまっていると見るよりほかはない。明朝は、朝寝、昼寝おかまいなしというお触れですから、皆さんが安心しきって羽目を外《はず》して寝込んだものです。
ひとり、駒井甚三郎だけが、船長室にカンカンと明りをともして、その光に熱心な面を射させて、海図であろうか、航海誌であろうか、眼をさらしていて寝ようとはしないだけのものです――そのほかに、眠っているのか、醒《さ》めているのか、寂然不動の体《てい》を守って艫《とも》の方に坐っているのがムク犬であります。
やがて、船長室のカンカンとした燈火も消えました。これで全く船のうちの人という人は眠りに就いたことの確定を見すましたかのように、今まで寂然不動のムクが、悠然として立ち上り、のそのそとして甲板に歩み出しました。これからが、おれの職分の世界だと言わぬばかりに――
十
ノソリノソリと歩み出したムク犬は、左舷《さげん》の舟べりに立って、海の上を見渡しています。
この静寂な海港の夜を破るほどの物音ではないけれど、左側の船腹のところで、たしかに断続的に物音が立っているのです。ミシリといったり、カタリといったり……それが鼠でも、ミサゴでもない証拠には、極めて軽いながら人の息づかいと、囁《ささや》きとが聞えるのです。
ですから、当然、ムク犬として、それに聞き耳を立て、注意深い眼を注ぐことはその職責であります。ただ軽々しく吠えないのは、この犬として当然の思慮で、その何たるを見極めて後にこそ、吠ゆべきは
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