何ですか、田山先生」
「ちょっと、こっちへおいで」
「はい」
茂太郎を呼び戻した田山白雲は、前こごみになって、その耳もとに口をつけ、
「お前、めったに七兵衛おやじと言うんではないぞ」
「じゃ、七兵衛おじさんと言えばいいの?」
「いけない、七兵衛という名をめったに口に出してはいけない」
「そうですか」
「わかったか」
「わかりました。さあ、ムク、おいで」
心得顔にムク犬を促し立てて、白雲に教えられた通りを茂太郎が歩み出そうとすると、ムク犬はこの時、臥竜梅の下へ行って、桶屋さんの仕事ぶりをすまし込んでながめているところです。
「ムク――」
呼ばれても、ちょっと動きそうにもありません。
「ムク、何を見ているの」
そこで、茂太郎も、ついのぞき込んで見ると、桶屋のおやじが、長い竹を裂いて、その尾を左右に揺動させながらハメ込む手際を面白いと見ないわけにはゆきません。
ムクを呼び立てた自分が自分に引かされて、両箇が轡《くつわ》を揃えて桶屋さんの前に突立っている。この桶屋さんの箍捌《たがさば》きのどこがそんなに気に入ったのか、茂公と、ムクとは、一心こめて手元に見入ったまま動こうとはしません。
田山白雲は、そこでまた写生帖の筆を進めて梅をうつしにかかりました。
「坊ちゃんは、どちらからおいでなさいました」
不意に、気のいい桶屋さんからたずねられて、茂太郎は、
「お船から」
「お船はどちらから?」
「房州の洲崎《すのさき》というところから」
「ほうほう、それは遠いところですね」
「遠いよ」
「そのお船は、今どこについておいでなさいやす」
「月ノ浦」
「ほいほい、月ノ浦、それもなかなかの道じゃござんせん、坊ちゃんはその月ノ浦から歩いてこれへござらしたか」
「小舟で来たよ」
「小舟で――七兵衛さんと一緒に?」
「ううん、七兵衛おやじは……」
と言って、茂太郎がハッと田山白雲の方を見返りました。
「知らないよ。さあ、ムク、行こう、オイセとチョウセ、オイセとチョウセ、オイセとチョウセ――」
こう言いながら一散に飛び出したものですから、ムク犬も、そのあとを追いました。
十八
それから暫くたって、再びお松がこの場へ来て見た時分には、茂太郎も、ムクも、無論いないし、写生に凝《こ》っていた田山白雲の姿も見えなかったが、例のイヤな桶屋さんだけは、抜からぬ面で頑張《
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