と違いまして、私風情は旅を常住と心得おりまする漂浪者の一人でございまするが故に、道程《みちのり》の長いことと、世間の申す憂《う》いものつらいものと申すような旅の重荷は、更に感じない身でござりまするから、皆様が御案じ下さるほどに、旅をつらいとは致しておりませんのでございます」
「それは、そうありそうなこと。実は昨晩から今朝へかけて、はからずも一人の相手がござって、旅の話にくらした次第でござるが、拙者とても、若い時分から、旅では相当に苦労いたした身――今は、こうして、かりそめの関守に納まっているようなものの、心は常に躍《おど》って、旅の空をかけめぐっているというような次第でござる」
「それはまた有難いお同行《どうぎょう》を一人恵まれたような思いでございます、旅を楽しむものでなければ旅の味わいは語り難いものでございますね。人生はすなわち旅でございます、月日は百代の過客にして……と古文にもうたってございます通りに、それから、只今お言葉のうちに承りますると、昨晩から今朝へかけて、あなた様の談敵《はなしがたき》が、これへお見えになったとのこと――それはいかなるお方でございましたか知ら」
「それは……」
と関守が口籠《くちごも》りました。お雪ちゃんの問いに向っては、押しかくすようにしていたと見えるのに、うっかりと口を辷《すべ》らして、弁信のために尻尾《しっぽ》をつかまれた形になってしまいました。
それは弁信のお喋《しゃべ》りが、あまり自然に出でてしまったものだから、つい、うかと本音を引き出されてしまったようなもので、こうなると、いささか、しまった! という感じがしないではないが、弁信としては、あえてたくんで口うらを引いて、ひっかけたつもりでもなんでもないから、先方が口籠れば、こっちがいっそう滑らかに進行させました。
「そのお方は、つい先刻、鈴慕をお吹きになったお方ではございませぬか。たしかに、わたくしは、それと推察を致して参りました」
「そう言われると、どうにも参らん――鈴慕をお聞きになられたな」
「はい。ところが、その鈴慕がでございます、曲はたしかに鈴慕でございましたが、内容精神は全く鈴慕を外《はず》れておりました」
「ふーむ」
関守は呆《あき》れたのと、驚いたのと両様の表情をして、それにしても、まあ、何というこましゃくれ[#「こましゃくれ」に傍点]た口の利《き》き方をする小坊主だろうと舌を捲いた表情を加えて、弁信の面《かお》を見返しました。
見直されたところが一向きまり悪いとは感じない弁信が、また立てつづけに、べらべらと喋り出してしまいました、
「芸術というものには、人を高尚にする芸術と、人を堕落に導く芸術とがあるものでございます、道徳の及ばざるところを、芸術が潤おすこともございますが、道徳の養いはぐくむところを腐敗せしめる力が、芸術というものには籠《こも》っていることは争われませぬ、真直ぐにして力ある芸術は、人の魂をよみがえらせるものでなければならないのに、たとえにとって申しますると、只今のあの鈴慕は、人間の魂を引きおろす鈴慕でございました」
「お前さんの言うことは驚異だ!」
と関守が叫びました。それにつづけて弁信は、
「本来、鈴慕の曲と申しまするものは、無限のあこがれの曲なのでございます、限りのあるいと小さな人間が、無限の大空に、あこがれあこがれて行く物の音がすなわち鈴慕であると、わたくしは信じておりました。虚空《こくう》に消えて行く鈴の音は、消えて行くのではありません、虚空の中に満ち渡って行くのでございます。されば、鈴慕の曲には、おのずから特有の悲哀と、無限のあこがれがなければなりませぬ、底知れぬ悲しみのうちに、量《はか》り知られぬ慰めを鼓吹するものでなければ、鈴慕はもはや鈴慕ではないのでございます。それ故に、只今こちらから聞えました鈴慕は、あれは人間の魂を引きおろす音色でございました、あれより怖ろしいものはございませぬ、ああいう曲を吹く人と、それを吹かせる人は、大悪人でございます」
「あなたはいったい、何者なのですか」
関守が弁信の面を見て、詰問のように言いましたが、その実は、途方もないといったような驚きでありました。
「わたくしは弁信でございます」
「ふーむ」
「あなたは只今、この不破の関屋のかりそめの関守であると仰せになりましたが、かりそめにも致せ、この関屋をお預かりしている間は、関のあるじでございます。関というものは、水の流れるをせき止めるように、人間の悪心をせきとめる関所でございます。申すも恐れ多いことでございますが、壬申《じんしん》の昔……」
と言って、お喋《しゃべ》りの弁信が、しくしくと泣きはじめました。
「弁信さん、あなたの言うことはよくわかりました、かりそめにも関守の身でありながら、人にすすめて、あのような鈴慕を吹かせたのは、わたしが悪うございました、拙者がすすめて、あの人に、あの鈴慕を吹かせたようなものでした、あなたに言われるまでもなく、その場で悔いていました」
と関守が、素直にあやまったのは、このお喋り坊主に、これから壬申の乱の歴史から説き起されてはたまらないと、おびえたわけではありますまい、平明率直に、自分のあやまちを謝るほどのものでしょう。
「わたくしは、あなたへ御意見をするために来たのではありませんでした、鈴慕の音が、あまり気にかかるものでございましたから、様子を見に参ったようなわけでございます」
「まあ、ともかく、弁信さん、草鞋《わらじ》をおぬぎ下さい、今晩はまたひとつ、お前さんと旅を物語らなければならない運命に落ちたようです」
「はい、有難うございます、もう私も、かれこれ申すいわれはございません、鈴慕の悪気が、只今はすっかり消滅してしまいましたからね。不破の関所のあとには、昔ながらの古気というものが漂うことを感じますけれど、悪気はもうございません。お言葉に甘えまして、今晩はひとつ、御当所へ御厄介になりまして、旅のお物語りなど伺いたいものでございます」
「ああ、そうなさいまし」
「では、御免を蒙《こうむ》りまして」
弁信は、そこで気安く、自分の草鞋を解きにかかりました。
お雪ちゃんのことなどは、ちっとも弁信の念頭にはないようです。念頭にないだけ、それだけ不安を感じていないのです。弁信が不安を感じていないということは、お雪ちゃんそのものの実体が、極めて無事順調に存在しているということの保証にもなりましょう。
こうして、弁信が草鞋の紐《ひも》を解いている時に、例の小笹の崖道がざわざわとざわめいて、そこから現われたのは、熊でもなく、米友でもありません。
覆面のお銀様の姿が、悠揚として、そこに現われました。
八十五
お銀様は、古関の庭をこちらに向って歩みながら、
「弁信さんじゃありませんか」
草鞋《わらじ》の紐を解いている弁信が、響きのように答えました、
「そうおっしゃるお声は、有野村のお嬢様でございましたね」
「わたしとわかりますか」
「わからないはずはございますまい、ほんとうに、生あればこその御再会でした」
「わたしはこの旅で、弁信さんにだけは、逢えると思いませんでした」
「お変りもございませんか」
「変りはありません。弁信さん、あなたはどこをどう歩いてこんなところまで来たのです」
「それをお話し致すと長うございます。私は旅が常住でございますから、どこをどう歩きましょうとも変りはございませんが、お嬢様、あなたが、こうして旅においでなさることは、思いがけない思いを致します。けれども、それは、あなたのためには善いことだとお祝いを申し上げなければなりません。有野村に於てのあなたの御生活は、暴女王の御生活のようでして、思うこと為《な》さざるは無く、命ずること行われざるは無き有様でございましたが、それが、決して幸福とは申し上げられないものでございました。それが、翻って旅においでになったということは、どちらに致しましても、あなたの魂を解放なさったと同じようなものでございます――」
「弁信さん、わたしは、旅に出たことを、それほど幸福にも思わないけれど、悪いことをしたと悔いてもいませんが、旅へ出てみて、しみじみと弁信さんというものを思い出したことがありました」
「それは有難いことでした、わたくしのような存在が、少しでもあなた様の御記憶に残していていただいたとすれば、それだけで、もはや本懐の至りでございます」
「あんなようにして、おたがいに打ちとけきれないで別れたのが、こんなところでまた逢えるというのは、尽きせぬ縁《えにし》なのでしょう」
「全く、浅からぬ因縁《いんねん》でございます。ただいま関守のお方から伺いますると、ここにも容易ならぬ御縁を結ぶようになりまして、今晩はこちらへ泊めていただくことになり、只今、こうして草鞋を解いているようなわけでございます――」
「弁信さん、お前が今晩ここへ泊るなら……わたしも、どう差繰っても今晩ここへ泊めてもらって、お前さんと話をしなければならない」
「有難いことでございます、御迷惑さまながらそう願えますことならば、わたしも、あなた様から伺わなければならないことが、まだ多分に残っているような心持が致します」
弁信がこう言って、まだ草鞋の紐がとききれないでいる時、例の小笹の崖道がまたざわざわとざわめいて、そこから現われたのは、常と少しも変りのない面色《かおいろ》をしたお雪ちゃんの姿でありました。
「まあ、弁信さん」
「お雪ちゃんでございましたね、ほんの、ちょっとの行違いで、御心配をかけて相すみませんでした」
「わたしは、どうしたのかと思いましたよ、弁信さんのことは、弁信さんだから心配はありませんが、わたしの心細かったこと」
「いや、もうよろしうございます、芸術の魅力は怖ろしいとは申せ、それは一時的のものでございますからな、鈴慕が終ると共に、悪気がすっかり消滅してしまいました。そこで、今晩は、こうして関守のお方の好意に甘えて、ここに草鞋をとかせていただくことになりました――お雪ちゃん、あなたも……」
「お嬢さん、弁信さんがここで草鞋をぬぐ以上は、あなたも、今晩は見苦しくとも、不破の関屋の板びさしの中で、一夜を明かしていただかねばなりません」
関守が、お雪ちゃんの方を向いて言うと、お雪ちゃんは頭を下げました。
「願ってもない仕合せでございます」
その時、お銀様が言いました、
「では、わたくしも今晩はここで御厄介になります、皆さんでまた、炉辺の物語に明かそうではありませんか」
お銀様の言うこともまた平穏でありました。
お銀様は決して、お雪ちゃんを裂いて食ってしまいはしなかったのです。
お雪ちゃんその人もまた、お銀様というものに、なんらの危険性をも感じてはいないようです。ですけれども、それが本当の熟した魂の産み出した懇親なのでしょうか。
弁信はしきりに、悪気が消滅した、悪気が消滅したと言って、安心を保証しているけれども、悪気を作りだした本尊そのものが、ここにいないではないか。鈴慕の曲に悪気をこめて吹一吹《すいいっすい》したその本尊様の存在が不明では、消滅が消滅にならないように、安心が安心の保証にならないではないか。
でも見渡す限りのこの不破の古関のあとの、庭にも、藪《やぶ》にも、畠にも、爽涼《そうりょう》たる初秋の気が充《み》ちて、悪気の揺ぐ影は少しもありません。
かくて、例の白昼の炉辺へ来て見ても、天井の低い、板目も古びた一室ではあるが、陰惨とか、瘴毒《しょうどく》とかいうような気分は無く、炉中の火が明るく燃えているのが、多少の肌寒い身に快感を与えるほどのものです。
天井の上にも、縁の下にも、さらに悪気が滞《たま》って人を撲《う》つなんという趣は少しもないのです。
今や、四人の主客が、この白昼の炉辺をほどよく囲みました。
主人は主人としての常座を占め、客のうちでは最も遠慮のない弁信が、最も炉辺に近く座を占め、それにつづいてお雪ちゃん――最後にお銀様は、ずっと控え目に……
それでもやはり、一座の女王気分は失わず、
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