見ようによっては、正座を占めた形で坐っておりました。
 主人がまだ語らない先、弁信がその弁口の洪水をきって落さない前、お雪ちゃんが、この平穏な席上、弁信のいわゆる悪気流が悉《ことごと》く流れ去った後のこの炉辺で、二つの異様な光景を見て取りました。
 その一つは、このおだやかな快感に満ちた炉中の焚火の中に、一管の卑《いや》しからぬ短笛――すなわち尺八が、無残にも燃えさしとなって残っていることと、もう一つは、控え目にこそ坐っているが、同行の貴婦人が室内に入っても、なお且つ、その覆面の頭巾《ずきん》を取らないということでありました。
 まだ時候が少々早いとはいえ、この貴婦人は広原の荒い風を厭《いと》うために、わざと頭巾をしているものだとばかりお雪ちゃんは見ておりましたが、こうして室内に入ってからも、頭巾を取ることをしないのは――左様な不作法をわきまえないほどの人でないことはわかりきっている、それがわかりきっていながら、その不作法をあえてしているには、あえてしているだけの事情か理由がなければならないと、お雪ちゃんが思いました。それは決して、我々を軽蔑しきっている振舞であってはなりません。

         八十六

 それらの事情が判明しない前に、関守は懐中から一枚の書附を出して、お銀様の前に置きました。
「これが水野家からの仮受取でございます、そちらへお渡し申します」
 お銀様はその受取の書附を取り上げて、
「弁信さん」
 挨拶は弁信の方へ向いました。
「弁信さん、これで、わたしの領土が出来ました、今度は、わたしの領土です、父の地内ではありません、あなたも、心置きなく住っていただかなければなりませんよ」
「領土と申しますと?」
 弁信が小首を傾《かし》げるのを、今度は関守が取って説明しました。
 その言うところによると、お銀様が、今度この土地で地所を買入れたということであって、買主は無論お銀様であって、その中間に立ったのがほかならぬこの関守、それからお銀様のために地所を売ったのが、西美濃で名代の名家、水野家であるとのことです。
 水野家というのは、西美濃山谷で、足利尊氏《あしかがたかうじ》以来の名家だそうであります。名家ではあるが、出でて仕えることをしないで、郷士、浪人の地位に甘んじているが、その実力は相当の大名に匹敵する。太閤秀吉も、出でて仕えんことを以て招いたけれども辞して仕えず、関ヶ原の時、石田三成は美濃半国を与えることを以て招いたけれども行かず――その深慮を讃《たた》えられた名家だということ。
 その家から、この関守を仲立ちとして、若干の地所をお銀様に譲り受けることになったものらしい。そうして、その地所というのは、どの辺にあるかまだよくわからないが、その面積はかなりな分量であろうことは想像される。
 何のために、お銀様がこの旅中で、こんなところへ左様に広大の地所を買受けるのか、それも昨日来て、今日もはや成立せしめるほどに事を急がせた理由は何であるか、そんなことはわからないながら、それだけの緒《いとぐち》で、なるほどと合点のゆきそうなことは、宇治山田の米友が、さいぜんから頻《しき》りに荷物を運搬していたこと、お銀様が存外落着いて、今日この地を立とうとの腰が見えないこと、それらによっても、その新たに求め得た領土というのが、これより程遠からぬところに存しているということは想像ができるのであります。それよりも、朝来の鈴慕以来、この家に留まった悪気流が早くも消滅してしまったということは、すなわち別にその広大なる領土を得たために、悪魔がそれに向って乗移ったのだと解釈されないこともない。
 それから追々、話が進むにつれて、お銀様の領土の観念が、弁信と、お雪ちゃんの頭に、明瞭になりました。
 このことに就いては、関守は、その前の晩、お銀様と弁論を闘わしているのですから、別に問題はありませんが、弁信は、お銀様の領土のことの観念が明らかになればなるほど、考え込んでしまいました。
 ひとり、お雪ちゃんは、心臓がおどるほどよろこびの念に打たれました。
 何という仕合せなことであろう、渡りに舟というようなよき運命に、わたしたちは恵まれたもので、この不可思議な貴婦人が、立派な理想家であって、且つ実力家であって、自分たちのために理想的の領土を建設して、そこに住めよと勧誘する。
 一も二もないことです。お雪ちゃんは、そういう安息所を、白山の奥や、畜生谷にまで求めようとしました。今、それが空想でなく、実現されて、自分も最もよき諒解の下に、無条件で、その中の一員となることを許されようとするのです。純真なるお雪ちゃんは、この異様なる貴婦人に向って、油然《ゆうぜん》たる感謝の念を起さずにはおられませんでした。
 だが――一つ忘れた大切なことがある。そこへ加わって安住を求めるのは、自分ひとりのためではなかった、弁信さんのためでもなかった、白骨までかしずいて、高山で苦労をしたその人の影を追うて、ここまで来たのではないか――ああ、鈴慕の主はどこにいる。それが急に気になって、胸がいっぱいになってお雪ちゃんは、この家の中を、落着かない眼で見廻しました。
 ほんとうに、あの異体な貴婦人の勧誘を感謝して聞く気になったのは、自分ひとりがそこで安心を得られるからではなかった。
 お雪ちゃんは、急にそわそわしてこの室の上下を見廻したのは、この座敷にその人が坐っていないことを、いまさら気がついたからでありました。
 ですけれども、それを関守にたずねてみるのは、どうしてもそぐわない。ましてお銀様に向ってをや――弁信を促し立てるのも、人前がある。そうです、こんなに暢気《のんき》に、いい気になってはいられないはずなのでした。
 お雪ちゃんは、ここで、その弁信の言うところの魔気が消滅しないで、残留していてくれた方がどのくらいよかったか――と考えてみると、居ても立ってもいられない気になりました。
 そうかといって、やにわにここを飛び出すわけにもゆきません。室内をグルグル廻るようにながめて、やがて、赤々と燃えた白昼の炉の中へその眼が落ちると、まざまざと眼に触れたのは、最初に不審なもののうちの一つ――卑しからぬ尺八の一管が、無残にも裂かれて、燃えさしとなって、炉中に残っていることです。
 しかるに弁信法師は、そういうことにはいっこう頓着なく、またお雪ちゃんのために、それらのことを思いやってやろうでもなく、黙然として、お銀様のいわゆる「領土」の話に聞き入っていますが、その有様は聞き置くべきだけは充分聞いて置いて、それから後におもむろに己《おの》れの判断と、意見とを喋《しゃべ》り出そうとする前構えのように見えました。
 白昼の炉辺は、それでも極めて閑寂で、鍋の中の栗が熟する音がよく聞え、つりおろされた鉄瓶がそのままでたぎっている音も聞えて来ると、外で、ざわめく軽い秋風の音が、関の藤川の流れを伴うて、透きとおるように静かになったものですから――客も、主人も、遠慮をして、頓《とみ》にその平和をみだそうとする者はありません。

         八十七

 それとほぼ同じ時刻、関ヶ原に続く、和佐見ヶ原の原中を歩いて行く二人の男があります。
 前なるは宇治山田の米友で、後ろなるは机竜之助でありました。
 米友は背中に大きな信玄袋を背負いこみ、その杖槍を後ろへ渡して、その一方を竜之助に持たせている。
 竜之助の姿を、いつもの暗夜行の時の姿とおもうと違います。絶えて久しい旅すがた――一文字の笠をいただいて、長い打裂羽織《ぶっさきばおり》を着、野袴をはいた姿は、その昔見た鈴鹿峠を越えた時の姿とよく似ています。歩みぶりといっても確かなもので、米友との間に、杖槍の連絡さえなければ、案内者兼従者を先立てて行く尋常の旅人としか見えません。
 道は黒血川と関の藤川とが合するところ、金吾中納言の松尾山を、はや後ろにして、勢州街道を左にし、養老の山々を行手にし、胆吹がようやく面を現わそうとしているところ。
「友さん」
と竜之助が、その広い原中で米友を呼びました。
「何だい」
「どうだい、もう一度、二人で江戸へ行こうか」
「御免だよ」
「どうして」
「江戸へ出ると、苦労が絶えねえわな」
「どこにいたって苦労はあるだろう」
「うむ」
「あの犬はどうしたエ」
「ムクか」
「そうだ」
「あいつはなあ――」
 米友は感慨無量の面色《かおいろ》で、勢州街道の方に向って嘯《うそぶ》きました。
「どこの国に、どううろついていやがるかなあ」
「死にはしないだろう」
「死にゃしねえよ、あいつのことだから、へたな死に方はしねえにきまってるがなあ」
「生きていれば、また逢えるだろう、全くいい犬だったな」
「いい犬にもなんにも……」
 米友はその円い眼に露を宿して、
「天下に二つとねえ犬なんだ」
「そうだ――」
「だが、あいつは、無事でいてくれるかなあ。無事でいてくれたって、こう遠く離れちまっちゃあ、またふたたび会うということはできめえなあ」
「うむ――いったい、お前はあの犬をどこへ逃がしたのだ」
「逃がしたわけじゃねえんだ、お松様につけてやったようなものなんだ、ほかの人ならとにかく、お松さんなら預けて置いて安心ができるからな。だが、人間というものは、老少不定《ろうしょうふじょう》なもんだから、お松さんが、もしものことがあって……きみ公[#「きみ公」に傍点]のようになってしまった日にゃ、ムクを可愛がる奴がいねえ」
「うむ」
「そうなると、ムクが野良犬になる」
「うむ」
「人間は落ちぶれても、正直にさえしていりゃあ、人が助けるけれど、犬が野良になった日にゃ、犬殺しの手にかかるよりほかは、行き道がねえだろう」
「うむ」
「ムク!」
 その時、米友が突然、大きな声をあげてムクの名を呼びました。無論、ムクの幻影がそこへ現われたわけではありません。何か懐旧と、愛撫の情でたまらなくなって、米友が突然大声をあげたまでのことです。
「ムクの奴にも、ずいぶん苦労をさせたよ」
と米友が、竜之助の前で言う声が、血を吐くようです。
「ムクの奴にもずいぶん苦労をさせたからなあ。間《あい》の山《やま》にいりゃあ、何のことはなかったんだけれど、今となっちゃあ、みんな死別れ、生別れだあな」
 こう言って米友は、我知らず立ちどまって、地団駄《じだんだ》を踏み、
「おいらなんぞは、ひとりぼっちで、生きてるにゃあ生きてるけんど、何のために生きてるのだか、さっぱりわからねえ! それを考えると、おいらはもう、お前をお城あとまで送り届けるのもいやになった、行くのもいやだから、帰《けえ》るのはなおいやだ。ああ、そうだそうだ、お前は腕が利《き》いているから、おいらを、ここで、パッサリとやってくんねえか」
 米友は、杖も信玄袋も投げ捨てて、和佐見ヶ原の真中に神将立ちに突立って、喚《わめ》き出しました。



底本:「大菩薩峠14」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年6月24日第1刷発行
   「大菩薩峠15」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 八」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
   「大菩薩峠 九」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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