まっている。雪の大野ヶ原だの、飛騨、信濃の白骨、安房峠だのを、噴烟《ふんえん》の中から越えて来たほどの弁信さんが、こんな平原の小さな川へ落ちて溺れるなんていうことは有り得べきことではないが、この際の、動静のすべてがあんまり案外なものですから、ついそんな気にもなって見ると、垣根の一方から下へおりるような小径《こみち》がある――そんなところまでをお雪ちゃんは眼にとめて、また関屋の方へ眼をうつしました。
 どうも、あの関守さんの返答ぶりが歯切れが悪いと思い返さずにはおられません。やっぱり隠しているのだと思われないわけにはゆきません。それも悪意で隠し立てをしているのではないだけに、始末が悪いとも思ったり、隠したところで、見渡すところ、あれだけの住居《すまい》なのだから、ほとんど隠れるところはあるまいに――してみれば、今まではいたのかも知れないが、わたしが来る前にここを立去ったのかも知れない、ことによると虚無僧姿で流れて来て、吹一吹《すいいっすい》して去るといったようなことかも知れない、それならそれとして、弁信さんはどうしたものです、弁信さんが来たことまで隠す必要はないではないか、しかも来ないということはないのです、たとえ五町十町と距《へだた》っているところなら知らず、たしかに屋の棟が見えるところから、ここをたずねた人が、どう間違っても戸惑いするはずはありはしない、まして弁信さんだもの、あの勘のいい弁信さんだもの――その人の来たことをさえ隠す関守さんは、何か腹黒いたくらみのある人ではないかと、お雪ちゃんの純な心に疑惑の雲をかぶせたほど、当惑したものになりました。仰ぐと、椎《しい》だの、樫《かし》だのの大木の枝が、頭上に竜蛇の如く交叉《こうさ》して、それを仰ぐさえ、自分の心を暗いものにしてしまいます。
「おっとっと――」
 その時に、自分がさいぜん見つけ出した、藤川の岸へ下りるであろうところの藪《やぶ》の崖道の中から、むくむくと姿を現わしたものがありました。
「おっとっと――」
 それを見ると、意外にも、たったいま常盤御前のお堂の前で別れた、頭巾の権高《けんだか》の貴婦人を迎えに来たところの杖を携えた小怪漢――すなわち宇治山田の米友でしたが、お雪ちゃんは、その出現ぶりに、なんだか夢に夢を見るような思いをさせられました。

         八十三

 崖道の小笹の中から現われ出でた怪漢は、上り立つと、身ぶるいをして、いきなり関屋をめがけて、その縄のれんのある台所口から飛び込んでしまいました。
 それを、眼をすまして見たお雪ちゃんは、何か知らず、よい手がかりを得たように思われないでもありません。
 あの男の出て来る折を待とうと思いましたが、それは待つというほどのことはなく、いま、縄のれんの中へもぐり込んだかと思う間に、もう、縄のれんの外へ浮び出して来ました。
 但し、浮び出して来は来たものの、もとの姿で浮び上ったのではありません、背中から肩、首へかけて、押しつぶされそうな、大きな明荷《あけに》を背負いこんで出て来ましたので、その意外に、お雪ちゃんがまた圧倒され、せっかく期待した手がかりに向って、当りをつけるのきっかけ[#「きっかけ」に傍点]を失ってしまったのです。
 その間に、押しつぶされるような重荷を背負った怪漢は、以前の崖道の小笹の中へ、熊のように身を没してしまいました。
 ほんとに惜しいことをした、そう思ってお雪ちゃんが、また、ぼんやりと考え込んでしまっていると、浮き出すのも早いが、引っこむのも早い怪漢は、またも小笹の間から、ぽっかりと浮び上って来ました。
 見れば、今の大きな明荷を、どこへどう処分してしまったか、またも最初のように手ブラで、むっくりと小笹の中から浮び出し、そうして、縄のれんをめがけて鉄砲玉のように飛び込もうとするものですから、お雪ちゃんはこの機会を逸してはならないと思いました。
「もし、若衆《わかいしゅ》さん」
「え!」
と怪漢が眼を円くして、こちらを見ました。お雪ちゃんなりとは気がついていなかったのでしょう、よし誰かいるとは気がついていても、呼びかけられるとは期待していなかったのでしょう。
「もし、若衆さん、あなたに少しお聞き申してみたいのですが、もし、ここらへ、眼の見えない、小さな、背中に琵琶を袋に入れて背負った坊さんの姿が見えませんでしたかしら」
「気がつかなかったなあ――」
 右の怪漢は、眼を円くして答えました。
「そうでしたか」
 お雪ちゃんは怪漢……のいう――怪漢はすなわち宇治山田の米友であること申すまでもありません――返事で、非常に失望を感じてしまいましたけれども、ここで、のがしてはまたつかまえどころを失ってしまうと思ったものですから、
「あの崖道を下りますと、どんなところへ参りますか、あなたがいま上っていらしった――」
「ここは、めったな人の通る路じゃあねえんだ――」
 その滅多には人の通らない路へ、どうして、あなたは、大きな荷物なんぞを担ぎ込むのです? と言ってやりたかったが、お雪ちゃんは、それまでは咎《とが》められないうちに、怪漢はまた弾丸の如く縄のれんめがけて飛び込んでしまいました。
 遑《いとま》なく、また浮び上ったところを見ると、今度は、素敵に大きな風呂敷包を一つ、さながら布袋和尚《ほていおしょう》が川渡りでもする時かなんぞのように、頭にのせて出て来て、またも小笹の中へ熊のように身を没しました。
 で、また以前のように、ぽっかりと単身で浮いて出るかと思うと、今度は、沈没したなり容易に出て来ません。
 してみると、運ぶべきものはあれで運び終ったものに相違ない――惜しいことをした、もう少し突込んでたずねてみたかったと、お雪ちゃんは、何か手のうちの物を落したような気になりました。それにしても、さいぜんの関守の返答ぶりと言い、こうして、路なき路といってよいところへ、大荷物をかつぎ込むことからして、只事ではないように思われてなりません。
 どうも仕方がない――思いきって、わたしもひとつ、あの小径《こみち》を下りてみましょう。今のあの若衆《わかいしゅ》のあとをたずねてみたら、たずぬる人の影がつかめないまでも、さきほどのあの権高い貴婦人という人にはまたお目にかかれるかも知れない。
 お雪ちゃんは、多少の冒険心を以て、今し米友が大荷物をかつぎ込んだ小笹の中をわけて下りて行きました。
 南条、五十嵐は、その時分、関守を相手に盛んに関ヶ原懐古を論じ合っていて、こちらの方は閑却しているのを幸い……
 お雪ちゃんの下りて行ったところはかなり広い竹藪《たけやぶ》になっておりました。広いといっても、その間を関の藤川が流れておりますから、竹藪はそこで両断されて、一方は松尾山までの林つづき。藤川の岸へ下り立つと、お雪ちゃんは、そこにささやかな丸木橋があるのを見、丸木橋のこちらに、蔦《つた》のからまった小さな祠《ほこら》のあるのを認めると共に、その祠の側の杉の大樹の下に、人が一人立っているのをさとらないわけにはゆきません。
 ところがその人は、当然そうでなければならないと信ずべき、今の大荷物を運搬した小怪漢ではありませんでした。
 尤《もっと》も、その彳《たたず》んでいる人の直前には、さきほど小怪漢が運んだ大きな風呂敷包の一つは置いてあるけれども、立っているのは、その小怪漢ではなく、全く別な人、別な人といっても意外な人ではありませんでした。
 常盤御前の墓の前で悪女を論じた、あの貴婦人――それが、立番でもしている如く、あの大荷物を下に、丸木橋を前にして立っている、そのほかには人ありとも見えません。
 それでもお雪ちゃんは、ぎょっとしたが、先方ではこちらよりも早く気がついて、こっちを見つめていたもののようです。
「さきほどは、失礼いたしました」
 お雪ちゃんはこう言って挨拶すると、先方も頭を下げました。頭を下げたけれども、その頭巾を取ったわけでもなし、取って挨拶しようとする素振もないことです。
 お雪ちゃんは、この婦人を、いよいよ変った婦人だと見ないわけにはゆきません。特にこうして大きな荷物を、ほとんど道なき道へ運ばせて、どこへ行くつもりだろう、姿を見れば品格もあり、話を聞けば知識も見識もあり過ぎるほどある人だから、決して逃げ隠れして、曲事をたくらむ人であり得ようはずがないのに、その行動のいかにも暗いのに不審を打たずにはおられません。
 でも、それに近づいて危険性のないことは、よく知っていますが、いよいよ近く歩み寄って行きますと、先方も、お雪ちゃんの来ることを忌《い》み憚《はばか》る気色は微塵《みじん》もありません。

         八十四

 お雪ちゃんが小笹の中を下へおりて行ったあとへ、それまでお雪ちゃんがいたあたりの地点で弁信の声がしました。
「お雪ちゃん――」
 それは遅かったけれども、お雪ちゃんが焦《あせ》ったほどに、弁信は緩慢であったのではありません。
 決して、神隠しになったわけでもなし、崖へ落ち込んだのでもなく、尋常に、お雪ちゃんのために、不破の古関のあとを偵察に行ったのですが、弁信の行きついた時分には、もう鈴慕の曲が消滅しておりました。
 それさえ消滅すれば問題はないのですから、そのまま引返そうとした途端に、弁信は、また法然頭《ほうねんあたま》を左右に振って、杖を路傍の木蔭に立てなければならぬ事態の発生したというのは、そこで、たしかに弁信は、お銀様という人の声でなければならない声を聞いたからです。
 この声が、ついに弁信を捉え、容易ならぬ感慨に耽《ふけ》らせました。
 今ごろここで、あの女性の声を聞こうとは、さすがの弁信の勘も及ばなかったところで、この声は、忽《たちま》ち路傍の一方へそれてしまったが、一時は、弁信をして、無二無三にそのあとをたずねて追いかけようかとさえ思わせたくらいです。
 しかし、勘に於てこそ卓絶のものはあれ、眼は不自由の身であり、足は勘を力に、極めて堅実な歩みをとるほかの力を持たない弁信には、ただ、立ちすくんで、お銀様の声を、聞き得べからざるところで聞いた、その因縁の判断のために、かなりの時間を費させたが、それがさめて、そうして、約束のお堂まで、勘をたよって戻り、声をあげて呼びましたけれど、その時はお雪ちゃんはいません――ほんの僅かの裏おもての道を、壮士らが詩吟をしたために、弁信が通り過ぎをして、そうして行違いになっただけのものです。
 しかし、今またここへ来て、弁信が「お雪ちゃん」と呼んだ時は、その声がもう、お雪ちゃんの耳まで届かないだけの距離を隔たっていました。
 しかし、弁信として、さまで悲歎も狼狽《ろうばい》もしないで、関屋の縁の方へと静かに取って返しました。
 弁信が縁の方に来る時分に、二人の壮士は、談ずべきだけを談じつくして、さらばとここを立ち上った時です。
 壮士は若干の茶代を置く。関守はていねいにお礼を言って、石刷かなにかを二三枚くれました。
 そのあとへ、抜からず弁信が腰をかけてしまったものです。
「それでも今日は、お天気がよろしくて結構でございます、不破の関屋は荒れ果てて、なおもるものは秋の雨――と太平記にございましたが、雨の風情もさることながら、私共のように旅を致すものは、やっぱり降らない方がよろしうございます」
「お前さんは、どこからおいでになりましたな」
「信濃の国、白骨の温泉というところに、暫く足をとどめておりまして、それから飛騨の平湯というところを通りまして、高山の町から国越えをして、只今こちらへ到着いたしたばっかりでございます。不破の関屋の板びさしという、昔の名残《なご》りがなんとなく慕わしいものでございますから、こうして立寄らせていただきました」
「それはそれは、お見受け申せば、盲目《めくら》の御身で、よくまあ長の旅を……」
「はい、不自由を常と致せば不足なし、と東照公も仰せになりました、おかげさまで、目界《めかい》は不自由でございますが、勘の方が発達いたしておりますものでございますから、さのみ不自由は致しません。それに、ほかの良民方
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