は、物の本にもみんな書いてありますが、それから後のことは、あまりわかりません。わたしでさえ、この土地へ来て、ここが常盤御前の最期の地だということを、はじめて知りました。そうして、今のあの馬鹿の先祖というものが、一代の美人の最後を思う存分に蹂躙《じゅうりん》してしまったのです、ここの名も無き土民の先祖が、義朝と、清盛と、大蔵卿とのおもいものを完全に侮辱して、この土地にうずめました。今のあの馬鹿の先祖が、最後の勝利者となるわけではありませんか――あなたは、それでも、常盤御前を貞女だと思いますか。貞女でないにしても、ただ意志の弱い、善良な一美人に過ぎなかったと考えますか。わたしはそうは思いません、朝《あした》に源氏の大将を抱き、夕《ゆうべ》に平家の大将に触れ、それから藤原氏の公卿さんと相汚《あいけが》し――そうして最後に、関ヶ原の土民のために骨までしゃぶられた常盤御前の生涯は、痛快な悪女の一つの標本として恥かしいものではないと、わたしは思います」
「そのことは、何とも、わたしには申し上げられません」
「貞女でなければ悪女――と、あなたの正直な見方だけを、はっきりと言ってみて下さらない?」
「どうも、今のわたしの頭では、それが何とも申し上げられません」
「なら、貞女と言う人があれば貞女、悪女だと言いきる人があったら悪女――どちらにしても、あなたはかまいませんか」
「でも、悪女に入れてしまうのは、かわいそうに思われてなりません」
「わたしは悪女だと思います、常盤御前は立派な悪女の一人として取扱った方が、あの人の魂が浮ぶと思います」
 もう、こうなっては、自分の独断を押しつけてしまわねば納まらない人です。お雪ちゃんは、なぜ、この人が、こんなに人の性格を吟味し、かっきりと分類し、どちらかの人別に加えてしまわなければ引かない意気込みを以て人に迫るのだか、ほんとうにわからない人だと思いました。
 しかし、品格と言い、知識と言い、物言いと言い、決して、人格を外《はず》れた人ではない、常識を逸している人ではないから、それだけに、恐怖と危険とを感じませんけれど、解釈しきれない性格そのものに迷わされないわけにはゆきません。
 この時分、もう短笛の音は聞えずなっていました。
 そうだ、自分は、こういう人たちのお相手にばっかりなっている身ではない、弁信さんのたよりを待兼ねているのだ、鈴慕の一曲も、もうやんでいるはずなのに、弁信さんがまだ来ない、お雪ちゃんは、そのことを思い返すと、貴婦人への応対は空《から》になって、足をつま立てて不破の関屋の方に気を引かれたが、弁信らしい人の合図がない代り、またも以前の一筋道で、里の童《わらべ》のするような口笛の音が高く起るのを聞きました。
 待ちこがれる弁信は容易に来《きた》らざるのに、そこへ口笛高く吹き鳴らしながら、またしても一箇の怪漢が姿を現わしました。
 怪漢といっても、今度は以前の馬鹿とは趣を異にして、極めて濶達にして俊敏なる挙動が一目にしてうかがわれる。
「お嬢さん」
「友さんかえ」
 貴婦人と新来の怪物は、しめし合わせて待ち合わしていたものと見える、一言の下に諒解がつきました。そのくらいですから、いきなり来て、お雪ちゃんに無礼を加えるような代物《しろもの》でないことはよくわかっています。
 これは宇治山田の米友でありました。

         八十一

 宇治山田の米友の来たことによって、お銀様は――今までの頭巾《ずきん》の貴婦人は、申すまでもなくお銀様であります――かねて待っていたことと見えて、二人はこの場を出て行ってしまいました。
 お雪ちゃんの待つ弁信は容易に来ないのに、あの傲慢《ごうまん》な貴婦人は、待っていた気苦労もないうちに迎えの人が来て、さっさと行ってしまいます。
 お雪ちゃんは米友を知らないように、お銀様をもそれとは知りません。二人が相携えて、一本筋を出て行く姿を見ると、悲しいやら、憎らしいやらの気持がいっぱいで、その後には、恐怖の念でありました。
 今し、縁の下へ潜《もぐ》り込んだ馬鹿がまた出て来はしないか。
 しかし、その心配だけは救われたというのは、見しらぬお銀様と米友とが出て行ったあと、すぐにそれと、ほとんど交代でもしたように二人の人の姿が、こちらへ向ってやって来るからです。しかもその二人の人の姿が、いかめしい、さむらい級の人たちのようでしたから、お雪ちゃんがなんとなく安心しました。
 やがて、このお堂のところへ着いたのを見ると、案《あん》の定《じょう》――これもお雪ちゃんとはまだ何の交渉もないが、この朝、関ヶ原の模擬戦を見て、道庵大御所の指を噛《か》んだところを論評した南条、五十嵐の二人の壮士であります。
 二人は、この場へ来ると、まず南条がお雪ちゃんを見かけて、
「常盤御前の墓はいずれでござるか」
 こう問いかけられたものですから、それはお雪ちゃんが、お銀様によって先刻承知のところでしたから、
「あの杉の木の下の、くずれた五輪が三つ並んでおります、その中のが常盤御前のお墓だそうでございます」
「左様でござるか」
 二人は、歩みをうつしてその墓へ近づいたが、それはお銀様のしたよりも潤いのある仕方でした。傍《かたわ》らに乱れた秋草を二つ三つ折って、しるしばかりに墓へ手向《たむ》けたことが、それです。
 そこで、右の二人は、またお雪ちゃんの方へ引返して来て、
「弘文天皇の御塚というのは、いずれにあらせられますか」
「…………」
 前のは、予備知識があったから、お雪ちゃんもすらすらと案内ができましたが、二度の試験には落第です。それを畳みかけて、五十嵐がたずねました、
「天武天皇御兜掛石というのは、どの辺にございますか」
「それも存じません」
 お雪ちゃんは、苦しそうに申しわけをしました。
「関の藤川の土橋へは――」
「…………」
「月見の宮というのがござるそうだが」
 それも、これも、一つも返答のできない身を、お雪ちゃんが自分から残念がりました。
 二人は、この少女から、容易《たやす》く常盤御前の墓の存在を教えられたものですから、立てつづけに第二第三の質問を浴せたけれど、やがて、お雪ちゃんがこの土地の者ではなく、やっぱり旅の未案内者の一人に過ぎないということをさとり、
「不破の関址《せきあと》はもう間近いことでござろうな」
 いちばんやさしい質問を、最後のお愛嬌のように残した。
「はい、あの笛の音が……いいえ、その街道へ出て見ますると、左の方に低い屋根の棟が見えるはずでございます」
「有難う」
 それで、二人もさっさとこの場を出て行ってしまいました。
 人に立去られると、はじめて感ずる、寂寥《せきりょう》と焦燥《しょうそう》とを通り越した恐怖――
 弁信さんは、いったいどうしたの――ああ、いいわ、もうこうなれば、このくらい待っていてあげて来ないのだから、約束通り、こちらから押しかけて行きましょう。
 ちょうどよいのはあのお侍衆、いずれも淡泊率直な豪傑風の方々だから、あの方々について行けば、当面は安心の道。
 こう思って、お雪ちゃんは矢も楯《たて》もたまらぬように、南条、五十嵐のあとを追って、不破の古関をめざして駈け出しました。
 まもなく叢林の間から詩吟の声が起りました。その声は、いま行った、南条、五十嵐のうちの誰かに相違ないことを知りました。
 その詩のなにものたるかを、まだ認識しきれないお雪ちゃんの代りに、次にうつしてみると、こうもあろうかと聞きなされる――
[#ここから2字下げ]
原田《げんでん》、毎々、高岡《かうかう》を繞《めぐ》る
想ひ見る、観師の※[#「革+(顯−頁)」、203−17]鞅《けんあう》を備ふることを
行《ゆい》て覚ゆ、芒鞋《ばうあい》の着処無きを
満山|草棘《さうきよく》、すべて甘棠《かんだう》
村々《そんそん》、酒有り、是れ誰が恩
弛担《したん》の旗亭、酔午|喧《かまびす》し
識《し》らず血戈汗馬《けつくわかんば》の処
竹輿《ちくよ》、夢を舁《にの》うて関原《くわんげん》を過ぐ――
[#ここで字下げ終わり]
 吟声が終った時分に、お雪ちゃんは二人に追いつきましたけれども、次のような余談に耽《ふけ》りながら歩いていた二人の壮士は、お雪ちゃんがつい後ろまで追いついてきたことを気がつきませんでした。
「さすがに、山陽だけに、村々酒有り、是れ誰が恩――と言って、神祖だの、源君だの、お追従《ついしょう》を並べていないが、大塩中斎あたりが、雪は潔《きよ》し聖君立旗の野、風は腥《なまぐさ》し豎子《じゅし》山を走るの路なんぞとお太鼓を叩いているのが心外じゃ」
「そこへ行くと、竹外のは純詩人的でよろしい、拙者がひとつ、竹外のをうなってみる」
 前のは山陽の詩で、それを吟じたのは、たしか南条――次のは藤井竹外の七絶で、五十嵐甲子男が次の如くうなり出しました。
[#ここから2字下げ]
山は平原を擁して駅路長し
即今、行旅、糧《かて》を齎《もたら》さず
黄花|籬《まがき》に落つ丹楓寺《たんふうじ》
尽《すべ》て是れ、当年の血戦場――
[#ここで字下げ終わり]
 二人の壮士が、後ろを顧みて、お雪ちゃんのつい後ろへついてきたことを知ったのは、その詩の終った頃でありました。
 しかも、その時分には、もはや、不破の関屋のあとの門前に立っていると言ってよいほどに近づいていました。

         八十二

 南条、五十嵐の二人の壮士にお雪ちゃんが交って、三人して、不破の関屋の関守の門の扉を叩いた時に、中は閑寂なものでありました。「関山月」も無ければ、「鈴慕」も無く、白昼、炉を擁して、しめやかに語る会話のやりとりさえ洩《も》れませんでした。
 暫くあって門の扉を開いた関守も、以前の関守に相違ないけれども、庭には昨夜の名残《なご》りの焚火のあとがあるばかり、庭を通して、広くもあらぬ板廂《いたびさし》の中をうかがっても、いっこう他の人の気配ありとも覚えぬことが、お雪ちゃんにとっては全く案外でありました。
「只今これへ、弁信さん――琵琶を背中にしょった、小さい、盲目《めくら》の坊さんが見えませんでしたか」
 関守にたずねてみると、関守はいっこう合点《がてん》せず、
「いいえ――どなたも」
「おや」
 お雪ちゃんは、またも途方に暮るるの思いで、
「では、ここで尺八を吹いておいでになったのは、どなた様でございましたか、あの鈴慕の曲を……」
「は、は、は」
 それには、関守も多少、星をさされたらしいが、それを打消して、
「それは、かく申す拙者の手すさびでございましたろう」
「それは違いはしませんか」
「違うはずはございません」
「でも、さきほど聞えました、あの鈴慕は……」
 鈴慕、鈴慕とお雪ちゃんの口から繰返されるごとに、関守も何やら痛いところを刺されるの思いがするように、気のせいか、見受けられる。
 その間、南条と五十嵐は、関守の案内を待たず、無遠慮に、庭をめぐり、碑面を撫《ぶ》し、塔の文字を読もうとしたりなどしています。
 今や、お雪ちゃんは全く途方に暮れてしまい、泣き出したくなったのを、やっと我慢し、ここで大声をあげて、弁信の名を呼んでみようかと思ったのをじっと我慢していると、関守が縁のところへ、お茶を三つ持って来ました。南条、五十嵐も一通り、関屋の庭を経めぐって縁に腰をおろし、それから、主人をとらえて、古事を談じはじめ、主人は白鳳時代の古瓦といったようなものを持ち出して説明につとめるものですから、お雪ちゃんは全く所在なく、椎《しい》の大木の下に立ちすくんで、古びた家と、荒れたる庭とを見渡すと、この荒れたる庭の真下に、せんかんとして小川が流れていることを知りました。
 その時、今もたずねられた、人のよくいう関の藤川というのが、それではないかと思いました。
 こうなってみると、それは全く取越し以上の取越し苦労だが、弁信さんが、もしやあの川の中へでも落ち込んでしまったことではないかとすら、お雪ちゃんが胸を躍《おど》らしてみたりしました。
 弁信さんともあろうものが、そんなはずはないにき
前へ 次へ
全44ページ中41ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング