らですかとでもたずねられたならば、お雪ちゃんとしても即答は骨が折れなかったでしょうけれど、全く予期に無かったところの常盤御前と浴《あび》せられて、言句につまったもののようです。でも、やっと、
「わたしは、旅の者でございますから、よく存じませんので……」
「あ、左様でございましたか」
と言って、右の頭巾《ずきん》の貴婦人は、お堂を左の方へ廻りこみ、
「おお、わかりました、常盤御前のお堂に相違ございません」
「左様でございますか」
 お雪ちゃんも、ていねいに挨拶をしました。
「お堂はこれとしましても、お墓は……」
 右の貴婦人は、これを常盤御前のお堂とたしかめてから、なお、堂の周囲をめぐり、中を少しのぞき込んだりして、まだ何物をか確証を捉もうとの風情《ふぜい》でいました。
 お雪ちゃんも、そう聞いてみると、これが常盤御前のお堂であるという知識から、自分も頭巾の貴婦人と同じく、このお堂を見直してみたが、別段に構造や建築に変ったものがあるとも見られません。
 お堂を一めぐりした頭巾の貴婦人は、また前の地点にもどって、お雪ちゃんとはかたみに一間ばかり間を置いたところで、立ってお堂を見直しましたが、その時、お堂の庭の右の隅に於て何物をか見つけ、
「ああ、お墓――がありました」
 貴婦人は、予期の発見を遂げ得た喜びの如くに、その前庭の右下隅に向って歩みを進めたから、お雪ちゃんも注意して見ると、崩れかかった石の五輪塔に、文字の読みかねた二三本の卒都婆《そとば》が突き刺されているのを認めました。
 お墓を見つけ出したことを喜んだけれども、右の貴婦人は、香を手向《たむ》けるでもなく、水をあげようでもなく、手に持っていた秋草をさえ、この墓に手向けんために折って来たのではないと見えて、ただ、しげしげと墓を見おろし、見まもっているばかりでありました。
 それは、亡き人をとむらい慰めんがために来たのではなく、ただ、墓を見ることの興味のために来た人のようですから、何となしに、お雪ちゃんは、この貴婦人の墓というものに対する敬意のほどを疑うような気分になりました。
 たとえ、無縁の人の墓所にしてからが、お墓をたずねて来る以上は、相当の弔意を表さねばならないはずなのに、この貴婦人は、物珍しげに、ただお墓をながめたなりに、一礼もせずに突立っている挙動が、お雪ちゃんの心をしてなんとなく、あきたらないものにさせました。
 それと共に、お雪ちゃんの頭にひらめいたのは、常盤御前のお墓がこんなところにあろうとは知らなかった、お墓があるくらいなら、ここで亡くなられたに相違ないが、そんなことも今まで聞いていなかったのに――
 わざわざこれへたずねてこられたあの貴婦人の方は、親戚の方ででもあるのか知らん。親戚といっても常盤御前のことは、もう七八百年の昔のこと――そんなに続いている子孫の方があろうとは思われない。
 そんなことをお雪ちゃんが考えていると、また以前の入口の方から、人の足音が起ったので、よびさまされる。今度こそは弁信さん――
 だが、今度も違いました。
「今日は、たれか一生懸命に笛を吹いてやがら、そうだ、十九女池《つつやがいけ》で、大蛇《おろち》が笛を吹いてるのやろ」
 見ると、これは通常、社会に於て、馬鹿とか阿呆《あほう》とか言われる種類に属した人品であることが一目でわかりました。ボロボロな衣服を着て、縄の帯をしめ、頭髪はもじゃもじゃで、面《かお》は変に赤らんで、緊張の欠けたそれが、お雪ちゃんを見ると、締りなく笑って、
「え、へ、へ、へ」
 その下品な表情に、お雪ちゃんは思わず身ぶるいせざるを得ませんでした。
「え、へ、へ、へ、美《い》い女が来ているな、お前さんは、常盤御前様じゃねえかね」
「いいえ」
 お雪ちゃんは気味が悪くてたまらないから、それを避けようとすると、
「え、へ、へ、常盤御前様なら、わし、あやまるから、こっちへ寄んなさいまし」
と言って、いきなりお雪ちゃんの帯をつかまえたのには、お雪ちゃんも全く胆《きも》も冷さないわけにはゆきません、叫び声を立てようとして、やっと我慢しました。それは、こんな種類のやからに対しては、弱味を見せることがかえって害悪を促《うなが》すと気がついたから、わざと落着いて、
「お前さん、失礼をしてはいけません」
「そんなに怒《おこ》んない、おこんない――お前さん、常盤御前だい」
 しつっこいこと、とらえたお雪ちゃんの帯を、どうしても放そうとしない。
「いけません、何をなさるのです」
「え、へ、へ、へ」
 その下品な笑いは、馬鹿のうちでも、阿呆のうちでも、極めて可愛げの少ない、たちの悪い奴だと認めないわけにはゆかない。特に女と見ると、全く手癖のよくない馬鹿があるものです。
 その時に、別に人があって、お雪ちゃんにはもう会釈《えしゃく》のある人だけれども、この馬鹿には、それは全く白日の天兵のような思いをさせた者があって、
「何を失礼なことをするのです」
 手に持っていた秋草で、したたかに馬鹿の頬を打ったのは、常盤の墓を睨《にら》んでいた覆面の貴婦人でありました。
 思いがけない、この貴婦人は気丈な貴婦人で、同性の者に加えられんとする暴力を見過してはいませんでした。
 そこへ行くと、馬鹿は馬鹿だけのもので、この思いがけない援兵のために、相手の実力をたしかめるほどの頭も働かず、非常に周章狼狽して追われざるに逃げまどい――ついにお堂の縁の下深く身を隠してしまいました。
「どうも有難うございます」
「あれはね――堂守の馬鹿なのです」
「たちが悪いのですね」
「いいえ、別に悪いことはしないのですが、ただ、女が一人いると見ると、何かしらしないではおられない手癖があるだけだそうですから、そのつもりで、この界隈《かいわい》では用心をしているそうです」
「でも、そんな手癖のあるものを、それと知りながら、堂守として置くのは危険ではございますまいか」
「弱味を見せるといけないのです、叱り懲《こ》らしてしまえば、本来、足りない人間ですから、危険性は無いと聞きました。けれども、あの馬鹿者を、どうしてもここの堂守にして置かなければならない因縁があるのだそうです」
「左様でございますか」
 お雪ちゃんは、この貴婦人(?)の親切にして、勇気もあり、兼ねて土地のことにもくわしいのが気になって、どういう種類のお方だろうかと、改めて伺い申す気になってみると、貴婦人はそれほど親切でもあり、分別もあるにかかわらず、お雪ちゃんの方へは、まともに向かず、見ようによっては、自分の面《かお》を見られることを憚《はばか》るための頭巾かとも見られてなりません。
 とにかく――この僻陬《へきすう》、荒原の間に、こんな貴婦人が住んでいるはずはないのに、どういう種類のお方だろうと、お雪ちゃんは不審を重ねつつ相対していました。

         八十

 右の貴婦人は、わざわざ常盤御前の墓をとむらわんがために来たもののようですが、それでも、墓に向って香花《こうげ》を手向《たむ》けるでもなく、墓を墓として見届けた後も、急に立去ろうとはしないで――お雪ちゃんのために、こんな話を語り聞かせました――
「わたしも土地の人に聞いたのですから、真偽のほどは存じませんが、常盤御前が京都から落ちられて来た時、この土地で、追剥のために殺されてしまったのだそうです。その時、無論、身につけていた多少の金銀、持物、衣類、すっかり奪われてしまったことは申すまでもありますまい。ところが、それを奪った盗賊というのがこの土地の者で――今も、子孫が代々残っているのだそうです。それが、常盤御前を殺した祟《たた》りで、代々その家へは一人ずつ馬鹿が生れて来る、その家では、その祟りを怖れて、このお堂を立て、その馬鹿に代々堂守をさせて来ているのだとか言いました。今のあれも、その馬鹿のうちの一人なのです」
 なるほど、そういう言い伝えも土地にはあるのかと、お雪ちゃんが、その点は一応よく解釈ができましたけれど、常盤御前ともあろう美人が、こんなところへ落ちのびて、土賊ばらのためにあえなき最期《さいご》を遂げたという物語は、はじめて聞くところで、多少の感慨を深くしないわけにはゆきませんでした。
「かわいそうでございますねえ、常盤御前というお方は、後には源氏が栄えましたから、立派に、幸福に一生をお送りになったこととばかり思っておりました」
 お雪ちゃんが、しとやかにこう答えた応対ぶりが、いちいち貴婦人の気に入ったもののように見受けられます。
「そうでございます、誰も普通、そのように思います――わたしは……」
と言って貴婦人は、常盤御前に対する一家言を、次の如くお雪ちゃんに向って語り出しました。
「御存じの通り、常盤御前は義朝《よしとも》の愛人で、義経の母でございます、それが、わが子を救わんがためとは言いながら、敵将の清盛に身を許してしまいました、あなたはそれを、どうお考えになりますか」
 貴婦人が、お雪ちゃんの意見を徴するような語りぶりは、通り一遍のものとは思われません。つまり、ここの僅かの交際で、貴婦人はお雪ちゃんを、相当話せる対手《あいて》と認めたればこそに相違ない。
「そうでございます、その点は、わたしたちも、よくわかりませんでした、常盤御前は貞女だということになっていますが、あれが本当の貞女でしょうか――と考えさせられたものでございます」
 お雪ちゃんが、こう言って、貴婦人の問いに答えますと、
「では、悪女ですか」
 貴婦人は、きっぱりした調子で、第二の問いをお雪ちゃんに向って、あびせかけたようなものです。
「悪女――貞女はどうですか存じませんが、悪女とは思われません、悪人ではございません」
「自分の愛人を虐殺した大将にこの身を許すことが、悪女でなくてできましょうか。許すまでは、やむを得ず許してしまったが、許した後は、きっと痛快の思いをしたに違いありません。昔の思われ人に、今の思われ人からわたしはこんなにまで愛されています、あなた、どのくらい残念に思召《おぼしめ》しますか、ちょっと、こちらを見てやって下さい――といったような感じが動きはしなかったでしょうか」
「さあ」
 この意外なる立入った質問に、三たびお雪ちゃんは、この貴婦人の面《かお》を見直そうとしないわけにはゆきませんでした。けれども、質問のまっこうなのにかかわらず、この貴婦人は、お雪ちゃんを見ることをまともにしないで、いつも横を向いたままで、あしらっていることが不足です。
「清盛に愛せられてからの常盤御前の面には、かえって義朝に向って復讐を遂げたような、心地よいほほえみが浮ぶようなことはなかったでしょうか。常盤御前を征服した清盛は、敵将の墓をあばいて、その遺骸に侮辱を加えると同様な快感を貪《むさぼ》っていたに相違ないと、わたしは思います。そうして常盤御前は、その快感に油をさしました。憎い者に復讐しているのではない、愛せられた人に復讐を遂げた常盤御前という人は、立派な悪女ではありませんか」
 お雪ちゃんは全く、この見ず知らずの貴婦人から、初対面早々、浴せかけられた論鋒に敵し難いことを感じました。こういう際には、なまなか自分の意見がましいことを言い出して問いつめられるよりは、教えを乞うの態度に出でた方が、賢いとも感じないではありません。しかし、それも、この貴婦人は、単に自分よりも物識《ものし》りであるという意味で問いつ語りつしているのではない、何かこの問題に向って、圧倒的に、自己の断定を押しつけてしまわねば満足できない、そこで居合わせたお雪ちゃんを、その圧服の助手に使おうとして、自説に保証を要求するような圧力ですから、教えを乞うにしても、率直にはどうもならないことにお雪ちゃんが、ほとほと窒息の思いをさせられるばかりで、
「わたしたちは、歴史のことなんぞを、あまり深く存じませんものですから……」
「誰だって、あの時代のことは、そう深くは知っているものではありません、ただ、清盛の寵《ちょう》が衰えた後の常盤御前が、大蔵卿長成というお公卿《くげ》さんに縁づいたということだけ
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