世間は、あの妻の、罪とはいえない美しい罪を責めて殺しただけでは納まらず、その無心な夫をも殺してしまいました、その時に、友人の妻は、友人の手に介抱されながら死にました、同時にその友人も、武士らしい処決をしてしまいました。夫の膝を枕にして、その破滅の身を横たえている妻なる人の屍骸を見た時に、拙者ははじめて憎いと思いました――その当然の帰結として、同じ枕に、もう一人の男が命を絶たなければならないのです。いや、これよりも以前に、こうしなければ面目の立たない男が一人いたのですが、その男は死におくれました。死におくれたとはいえ、死を怖れたのではない、その男は友人の妻の屍骸を、友人の膝から抱き取って、同じ運命に急ごうとした時、それをそうさせないものがありました。死んでも死にたりない身、二人がこうなる以前に、こうしなければならなかった身が、ひとりわれと我が身を処決のできないようにしてしまった一つの力がありました。それは、拙者の女房であったのです……
 拙者の女房は、この場へかけつけて、拙者を死なせませんでした。あなたがいま死んではなんにもならない、ただ犬死だけで済むならば、その犬死でもようござんすが、あなたがここで死んでしまえば、九族までが未来末代の恥を着なければならない――この二人を殺したのはあなたでもなければ、わたしでもありません、またこのお二人の自業自得でもありません、この二人を殺したのは、世間というお節介者です――世間が殺したのだから、世間に罪を負わせてやらなければならない道理をお考え下さい、と拙者の妻が諫《いさ》めました。つまり、この御夫婦は、世間の誤解のために殺され、身の潔白を証拠立てることに死んだのである、それを、あなたが、ここで同じ枕に死んでしまえば、かえって世間の誤解に裏書きをし、せっかくのお二人の身に潔白が立たないとこう言うのです。ですから、あなたはここは、どんなにしても生きていただかなければならない、わたしがどうしても殺さない、そうすれば世間が自分で自分の罪を着ます、ああ、あの夫婦は潔白なものであった、死を以てそれを証明するほど潔白なものであったと――一切を帳消しにしてしまいます、そうすれば、あなたも不義の名をのがれます、わたくしも、わたくしの一家も、不義者の女房として、親類としての世間の批評からのがれることができます、ここは、あなた一つの身体《からだ》であって一人のものではありません……と女房がこう理《ことわり》をわけて、拙者の死を、金剛力でおさえたものです。そこで拙者は、死ぬにも死なれない苦痛に全く昏倒していましたが、万事、拙者の女房が捌《さば》きをつけてくれました。女房は、拙者に諸国修行をすすめました、自分は甘んじて離縁を取りました。以来、拙者はこうして旅から旅に淋《さび》しく老い行こうとしますが、その昔のことは一切思うまい、見まいとして今日までやって来ましたが、今日になって、長々と三十年前の愚痴を繰返して作業《さごう》を新たにするのは、自身の罪ではありません、鈴慕に誘惑された一管の罪です。どうです、その尺八を砕いて、この火の中にくべてしまおうではありませんか」
 ここで、関守の身の上の長物語は一通り終りましたが、竜之助は、いつか知らず右の尺八を膝の上にのせていたのを、また取り直して構えながら、
「よろしい、では最後の思い出に、もう一曲吹いてみよう」
 歌口をしめして、再び吹き出づるこれが、またしても鈴慕の曲――

         七十八

 不破の古関のあとに近く、その板廂《いたびさし》の屋の棟の見ゆるところまで来て、弁信法師が、はたと歩みをとどめました。
 盲目《めくら》とはいえ、この旅路に於ては弁信が手引であって、お雪ちゃんが追従の形でありましたから、弁信が行くところへは行き、その留まるところへは留まらないわけにゆきません。杖《つえ》を立てた弁信が首を傾けて、物の音に聞き入りました。
「いけません――」
「どうしたのです、弁信さん」
「あの笛の音をお聞きなさい」
「そうねえ」
 お雪ちゃんが耳をすます時、荒野をつとうて、清亮なる一管の音色の冴《さ》えてここに伝わるのを聞きました。そうして、その一管の音もどこから起りましょう、まさしく、原中の一軒家に近い、あの不破の関屋の板廂のあたりから起る以外の何物でもありません。
「あ、弁信さん、あれは鈴慕《れいぼ》です」
 弁信が教えるまでもなく、お雪ちゃんが先刻|合点《がてん》の音色でした。
 その音色をさとるとお雪ちゃんが、胸をわくわくさせて、はずみきってくる鼓動が、弁信の勘には瞭々と伝わって来るのでしょう、それを抑えるように言いました。
「まあ、お待ちなさい、お雪ちゃん、あの曲が終るまで……」
「だって」
「あれが吹き終るまで、ここに待っていらっしゃい、その上で、関屋のあとをおとずれても遅くはありません」
「でも、あれは、もう鈴慕に違いございませんもの。ああ、白骨の柳の間のことが思われます、違いません、ちっとも違いません、あの音色――あれをああして吹く人は、別の人であろうはずはありませんもの。弁信さんの勘が当りました、ほんとうに神様のようでした。ああ、いい音色……」
 弁信にささえられて、じっとしてそれを聞き惚れていたのではありません、その音色にそそられて、しばしの間も、ここに留まることをもどかしがるお雪ちゃんの心――それを弁信は沈みきって、抑留しているのは、あえて自分が、それより一寸も進もうとしないのでわかります。
「弁信さん、早く行きましょう」
「まあ、もう少し待って下さい、あの一曲が終るまで」
「わたしは、じっとしていられない、あなたはあの笛の音を聞いて、わたしに留まれと言いますけれども、わたしは、あの笛の音を聞いて一層、じっとしてはいられない心持になりました、行きましょうよ、弁信さん」
「ああ――」
「いけませんねえ、弁信さん、今になって、そんな心細い姿をしてしまっては……第一、わたしが困っちまうじゃありませんか」
「お雪ちゃん、わたくしはあの笛の音が気に入りません」
「気に入るの入らないのって、なにも弁信さんに聞いてくれと言って吹いてるわけじゃないじゃありませんか。あれは鈴慕です、そうして吹いているその人も、わたしには、はっきりわかっているから、こんなに心がワクワクする、それが、弁信さんにもわからなけりゃならないはずじゃありませんか」
「それは、ようくわかっていますけれどね、お雪ちゃん――人というものは、高尚な音楽を吹いても、心に邪気がある時は、人を殺します。俗曲を吹いていても、その人の心が高尚ならば人を救います。今、あの短笛の音色は決して高尚なる音色ではありません」
「まあ、ほんとうに困りますねえ、弁信さんの耳は別物なんだから話にならないわ、わたしたちには高尚だか、殺伐《さつばつ》だか、そんなことはわかりません、ただ、尺八の音がして、それが鈴慕の曲だということだけがわかるのです、それだけでいいじゃありませんか――悪ければ悪いように、当人に穏かに忠告してあげれば、それで済むことじゃないの」
「そうではありません、あの音色は――曲はまさしく鈴慕ですけれども、音色は全く違います、あれあれ、あの殺気を帯びた高調をお聞きなさい、あの低く落ちたメリカリの間《ま》をお聞きなさい、弁信でさえも、妙な心持になります、女人に聞かせてはたまらない音色です――あれです、あれが真に人を悩殺するの音色です。今、あの人は尺八を持って、それに吹き込んでいるから、まだしも幸いでした、あれが剣を持てば人を抉《えぐ》る音なのです――女を見れば、貞操を奪わねばやまぬ音色なのです」
「ああ、どうしましょう、弁信さん、わたしも女ですけれども、わたしには、ちっとも、そんな感じは致しません――ただ、清らかな鈴慕の音ではありませんか」
「そう聞えることが、いよいよ魔力の深い証拠なのです――わたくしは、これより一尺も、あなたを進ませる気になりません、少なくともあの魔気が消滅するまでは、あの笛に近いところへ、あなたという人を近づけるわけには参りません」
「そんなことを言ったって弁信さん、いつまでも、ここにこうしておられますか――そんな魔気とやら、毒気とやらが、いつになって消滅するのですか」
「ですから、こうしましょう、お雪ちゃん」
と言って、弁信はお雪ちゃんを顧みて次の如く提言しました。
「お雪ちゃん、わたくしが一足さきに行って、様子を見て来ます、いかなる現場に、いかなる人と応対なさればこそ、ああまで一管の音色が変るものか、それを、わたくしが一人だけ一足さきに行って、一通り認めて参りますから、そうして、もし、わたくしが、ちょっとでも身を現わすことによって、またその場の空気が変らないとも限りません――そうして下さい、暫く、ここにあなた一人で待っていて下さい、お雪ちゃん」
「弁信さん、あなたが待っていろと言えば、それはわたしは待たないとは言いませんけれど――何といっても、ここは関ヶ原のまんなかで、淋しいところです、淋しいのは厭《いと》いませんが、ここまで、ついぞ離れなかった弁信さんと、ちょっとの間でも離れるのが、わたしはなんだか気になってなりません、平常《ふだん》ならば何でもないのですけれど、弁信さんが、今もあんなことを言うものだから……」
「どこか、その辺に、あなたの休んでいるような家はありませんか」
「ありませんね、あ、あそこに、ちょっとしたお堂の屋根が一つ見えます」
「では、そのお堂に、人が住んでいましたら、一応の御挨拶をし、誰もおりませんでしたら、そのまま、ほんの少しの間、待っていて下さい」
「では、そうしましょう、弁信さん、すぐに帰って来て下さい」
「吉凶――いずれにしても、すぐに帰って参ります」
「では、弁信さん」
「お雪ちゃん、では、わたしが一足お先に……」
 弁信が二足三足歩き出すと、何かしら急に心細くなったお雪ちゃんは駈けよって、
「ねえ、弁信さん、もしかして、あなたの話が遅くなるとか――一人では迎えに来られなくなった時はどうします」
「あ、その心配には及びません、もしや、予想外に手間がかかるようでしたら、かまいませんから、弁信の名を呼んで出ていらっしゃい」
「かまいませんか」
「かまいません――ですけれども、辛抱できるだけは辛抱して、わたしのおとずれをお待ち下さい」

         七十九

 かくて、お雪ちゃんは、弁信を一足先に関屋へやり、自分は小一町を小戻りして、とあるお堂のところまで引返して来ました。
 そこへ来た時は、お堂には誰もいませんでしたけれども、誰か住んでいる気色《けしき》はたしかにあります。お雪ちゃんがお堂の前に彳《たたず》んでいることしばし、自分の入って来たと同じ方向から人の足音が聞えました。
 最初は、弁信さんかと爪立てて見ましたが、一直線な入口ですから、そこから来る人が弁信でないことが一目でわかりました。
 それは、手に秋草を持って、面《かお》は頭巾《ずきん》で覆うた、ちょっとこの辺には思いがけないところの、なかなか気品のある婦人の姿であります。
 仮りに、これを貴婦人と言いましょう。右の貴婦人は、こんな淋しいところへ、一人のおとももつれないで、平気で入りこんで来ることも、お雪ちゃんの眼をひきました。
 当然、あの入口を、こういうふうに進んで来れば、現にお雪ちゃんがいると同じ地点へ出なければなりません、同じ地点へ来れば、いやでもお雪ちゃんと面を合わせないわけにはゆかないのです。
 果して、先方も、ここに見慣れない旅の娘が彳んでいることを思いがけないとして、頭巾の中から一時《いっとき》こっちを注視していたようでしたが、近づくに従って面をそらし、
「こんにちは――」
と言って、貴婦人相当の鷹揚《おうよう》さではあるが、初対面の人に礼を失わずに挨拶をしてから、それをつづけて、
「あの、常盤御前《ときわごぜん》のお堂はこちらでございますか」
「いいえ、あの……」
 問いかけられて、お雪ちゃんが少し狼狽《ろうばい》しました。それは、不破の関屋のあとはどち
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