した。又者というのは、必ずしも百姓町人以下を呼ぶのではなく、主膳の地位として、江戸の旗本以外のものを、すべてを又者と呼んでいるらしい。
こういう論鋒は、主膳としては峻烈でもなく、僻見《ひがみ》でもなく、真実そう思っているのですから、憚《はばか》りなく言ってのけてしまって、なお平然として石刷をさぐっているのです。
こうして神尾主膳は、二三の拓本を求めて悠々とこの本屋を立ち出でましたが、時はもう黄昏《たそがれ》です。根岸へすんなり帰るのも、気が利かないような気持がして、なんとなく、池の端の方をブラつこうという気になりました。
七十三
神尾主膳はこうして、池の端のきんたいえんの傍を通ると、書画会の崩れらしいのら者が、三々五々と帰って行くのを認めました。いずれも気取ったなりをして、軽薄な笑い話をしながら肩を並べて帰って行く。
近頃の書画会というやつは、酒と芸者が入らなければ出来ないことになっている。堕落しきった奴等だ。
主膳は、書画会の崩れののら者を横目で睨《にら》んで行くと、
「え、え、いかあさま――御安直に一つ、いかあさま」
これもまた、いやに気取った兄いが、三味線弾きをひとり引連れて、客をあさって歩くのを見る。
「いかあさま、御安直に……」
新内の流しか、こわいろ使いか。そんな奴等にしても、以前は御安直に、御安直に……なんて言わなかったものだ。こいつは人の面さえ見れば、いかあさま、御安直にと言っている。かりにも江戸者に似合わねえしみったれ[#「しみったれ」に傍点]な奴だ、と見ていると、ようやくお得意を一軒くわえたと見え、三味線がシャラシャラと鳴り出して、
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「御安直なるいずれも様に、弁じ上げます標目の儀は、薩摩嵐《さつまあらし》か西南の太平記……」
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軍鶏《しゃも》を締め殺すような声。
なんだ、江戸前を誇りとしているこいつらが、新内か、江戸役者のこわいろでもやり出すかと思えば、近頃はやり出したこいつが上方筋か、イヤにきんきんした、そのくせ、みみっちい声を出しゃがる、聞くともなし聞えるところは、あっちを取入れたり、こっちを焼直したり、いま長崎で敵討をはじめたかと思うと、唐の南の方へ繰出して、ガタガタ慄《ふる》えたりなんぞしている。それを一くさりやって、したり面《がお》に歩みをうつしながら、
「お次は一つ、目新しい酒屋ぞめきというのを、いかあさま、御安直に……さあ、御安直にお遊び下さい」
なるほど、御安直を看板の芸術――御当人、この臭い、アク抜けのしない芸当を、大江戸の真中で押し流して歩いて臆面のしないところ、たしかに出が阪者の下等な奴だ。
「さあ、御安直に、いかあさま、新古おしなべての五もく節、御安直に、いかあさま――」
それでも、このアクドイ臭い芸術が、右からも、左からも、口のかかるところが不思議。
江戸前の芸当てやつも、こうして阪者の鼻持ちのならぬ臭い奴に、日に日に侵入されて行くのか、近頃の江戸ッ児も舌ったるくなったものだ、誰かあんなのブチのめす奴はねえのか。
「では、ひとつ、物真似《ものまね》てやつを、御安直にお聞きに達します」
そこでまた三味線がペンチャンと鳴り出して、豚の吼《ほ》えるような声、それを聞いていると、当時江戸で有名な芸人の芸風を物真似でしゃべり出している。それを上方弁のアクの抜けないのが、いっぱしアクを抜いた気取りで臆面なくやってのけるものだから、歯が浮いて、聞いてはいられない。
でも、やっぱり感心に、右からも、左からも、声がかかる――
「御安直は芸が冴《さ》えている!」
何が冴えている! 江戸ッ児も、もう駄目だ。
馬道で百姓を見せられ、池の端で御安直を聞かせられた主膳は、癪《しゃく》に障《さわ》って山下を歩きながら考えました。
取るに足らぬ安直な芸術とはいえ、あの泥臭い上方芸が、江戸前をのさばるということがすでに天下大乱の兆《きざし》だ――
「御安直なるいずれも様へ……」
そのキンキンした溝臭《どぶくさ》いちょんがれ声が耳について、プンプンしながら根岸の宅へ戻って来ると、今晩は珍しくお絹が待っていて、しかも上機嫌でチヤホヤしたのは、主膳を歓迎して御機嫌をとる意味ではなく、何か自分の方に嬉しいことがあって、それでそわそわしているものとは見て取れる。
「あなた、今日は、あなたのお留守中に、珍しい人が見えましたよ、全く珍しい人、どうしてここがわかりましたか知ら」
「誰だ」
「相馬の金さん」
相馬の金さんと聞いて、主膳がさすがに眉《まゆ》をひそめざるを得ませんでした。
相馬の金さんと聞いて、主膳ほどのものが思わずうんざりしたのは、わけがありそうです。
それはこうです。相馬の金さんといえば、誰も知っているほど通っていたが、本来は相馬姓ではなく、自ら相馬の子孫と称してはいたが、実は戸村なにがしという、お屋敷添番をつとめた旗本の一人ではありました。
この男が、主膳も眉をひそめるまでの無頼漢であったというのは、麻布の長者丸あたりにあった屋敷の、門の扉などは疾《と》うになくなっていて、荒縄を一本、横に張って、扉の申しわけにしていたというくらいですから、その荒廃の程度がわかる。
幾多の無頼漢を集めていて、自分がその親分気取りでいる。同じ無頼程度で言っても、神尾あたりは、それと比較すれば身分も上だが、品位も上になっている。
この相馬の金さんは、金に困ると、青山辺の質屋へ、よく蛇を刀箱に入れて持って行ったものだが、その言い草には、これは先祖伝来秘蔵の名刀だが、他人が見れば蛇に見える!
ことに尾籠下品《びろうげひん》なのは、ある時、七人の手下と共に、ある商家を強請《ゆすり》に行った時、金を貸さなければ店前《みせさき》を汚すよといって、七人が七人、店前で尻をまくった。この時の尻をまくるというのは、ただ着物の裾をひけらかすだけではない、本物の臀肉を裸出させて、そうして、それでも七人の手下は、それ以上にはやらなかったけれども、金さんだけは正銘に、こてこてとやらかしてしまったという――その悪辣下品《あくらつげひん》さには、主膳ほどのものも面《おもて》をそむけないわけにはゆかない。
それが今ごろになって、何しに来たのだろう。お絹の言うところによると、馬道の本屋でお見かけ申したから、所見当をきいてやって来たに過ぎないという。別段に、こだわりも無いようだ。
相馬の金さんのことは、それだけになって、次にお絹がいい気になって喋《しゃべ》り出したのが異人館の話でしたから、たまりませんでした。
主膳は苦りきって、文句を言うのさえ癪でいるのをいいことにして、異人館の設備の隅から隅まで行届いていることと、それからぜひ一度あなたもそれをごらん下さらなければならないこと、そうして、異人さんなるものが決してそう毛嫌いをすべきものでなく、広く世間を見ているから、胸が広くて話が面白いこと、結局、本当の通人は異人さんの方にある! 一度、つき合ってごらんなさい! 事実、主膳という男は、しらふの時にお絹の手にかかった日には、存外たあいのないことが多いが、それも程度である、今日はいろいろ不愉快がこみ上げているから、ついにムラムラとしてきた矢先へ、お絹が変なものを突きつけました。
「これは、西洋のお酒です、まあ一口、召上ってごろうじろ」
ギヤマンの瓶に入れた幾本の酒、まずその平べったい一本を取って、主膳の前にお絹が置き並べたので、酒と聞いて、和漢洋のいずれを問わず、主膳の気がやわらぎました。
「なに、これが毛唐《けとう》の酒?」
「まあ、ものはためしだから、召上ってごろうじませ、おいやでしたら、吐き出しておしまいなさい――でも、じっと辛抱して、咽喉《のど》を通しておしまいになると、また乙だなんておっしゃるかも知れません、ものはためし、食べず嫌いなんていうのがいちばんやぼでございますからね」
とお絹は、ギヤマンの栓を外《はず》せばコップになっている仕かけのを抜いて、主膳の前に置き、一杯を注いでやりました。
異人及び異人館の讃美と講釈には、ムカツクほど、うんざりせざるを得なかったが、酒といって眼前に出されてみれば、主膳としてまた心が変る。
やがて主膳は、それをけなし、けなししながら飲みにかかりました。
それ、酒の趣は燗《かん》にある、燗をしない酒に何の味がある、この色はどうだ、第一このギヤマンなんていうやつが杯酒の趣に添わないやつだ――酒中の趣というものは、一陶の酒といって、すっきりした陶土の器でなければ……なんぞと小言を言いながら、それでも、チビリチビリと飲むには飲むのです。それを傍らからお絹が取りなしたり、弁護をしたりしてすすめている。その様子を見ると、お絹という女は、洋酒は酔わないもの、人を酔わすのは日本酒に限るものだとばかり考えているもののようです。そうでなければ、最初から、この男の持った病を頭に置いてかからなければならないのに、今日は、あれもこれもとお強《し》い申している。
見る間に一本は空になって、また次なる一本を、
「これはまた変っておりましょう、この方が少々甘口かも知れませんが……」
やっぱりそうだ、ためしに飲む酒と、飲ます酒は、人を酔わさないものと心得ているに相違ない。そうでなければ、洋酒というものは、本来、人を酔わすものでないという先入主でかかっているのでしょう。
お絹自身は飲まないから、その強弱のほどはわからないのです――あれも、これもとすすめるうちに、ついに主膳をしてろれつ[#「ろれつ」に傍点]の廻らないものにしてしまいました。
そこに至ってお絹が、はっ[#「はっ」に傍点]としました。おやおや、西洋の酒も人を酔っぱらいにしますねえ――してみると、これは度が過ぎましたねえ。
お絹は、はっと狼狽《うろた》えて、思わずギヤマンを取隠すような気になって、手を延ばした途端に、主膳の面《かお》を見ると、その三眼の貪婪《どんらん》にはじめてギョッとしました。
「お絹、もっと飲ませろ」
「ああ、もう、このくらいになさいまし、ねえ、あなた」
「いいんや、もっと飲ませろ、飲めば酔い、酔えばまた飲みたくなる、酒の持つ執念というものは、毛唐も日本も同じものじゃて、ハハハハハ」
高らかに笑った主膳の声が、屋敷いっぱいに物凄《ものすご》く響くのを聞きました。
「もうおやめあそばせ、馴《な》れないものを、たんと召上ると毒でございます」
「ハ、ハ、ハ、お前がすすめておいて、いやがるおれに飲ませながら、今更そんな野暮《やぼ》を言うない」
主膳はのしかかって、お絹の手からギヤマンを奪ってしまいました。
「ほんとに、いけませんねえ」
お絹はその時、西洋の酒を憎みました。西洋の酒でなければ、ここまで主膳を酔わせるようなことをしなかったのに、今はもう是非がありません――まず、とりあえずの仕事は、主膳の身辺にあって、病気が発した時に兇器となるべき物を押隠してしまうことでなければなりません。
幸いにして、この長押《なげし》には主膳の得意な槍がありません。両刀がこの酒席よりやや遠いところにありました。
お絹はなにげなく、その刀を取って、自分の後ろの方にかいやりました。
「ハ、ハ、ハ、ハ」
主膳はそれを気取《けど》るや気取らずや、高らかに笑い上げた面をお絹の真正面に向けて、
「お絹さん、お前、ラシャメンというものを知ってるか……ラシャメンという淫獣を知ってるか、毛唐のやつは、ラシャメンを買って人間扱いにはしないそうだ、そうだろう、毛唐本来が人間の部ではないのだ、だから、人獣相楽しむというなまやさしいのではない、獣々相楽しむということになるのだ、ははははは、お絹、そちはラシャメンを知っているか――おれも放蕩はしたが、まだラシャメンを買って楽しんだためしがない、お絹、何とかしてくれ!」
七十四
昨晩、ああいう珍劇を演じたにもかかわらず、今朝は至って閑静なもので、神尾主膳はおひる近い時分になって起き出でて、朝餉《あさげ
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