、毛利が三星一文字、細川の九曜――西軍の総帥格宇喜多中納言と、裏切者の小早川秀秋は、共に豊臣太閤のお覚えめでたい子分だから、これは当然に桐、本多の立葵に藤堂の蔦《つた》――それから、東西きっての器量人大谷吉継は、たしか鶴の丸だと心得ましたが、いかがなものでございましたかしら。
 何しても旅中のことで、的確な史料を得ることができませんから、この辺で悪《あ》しからず……と心覚えの紋所を、それからそれと描き出したので、道庵をはじめ、この風流人の博識に感心して、それを手本として、筆の達者なものが競《きそ》って家々の旗を描き上げました。
 そこで軍容が悉《ことごと》くととのい、産土八幡《うぶすなはちまん》の前を右に、北国街道へ向って陣を進め、笹尾山の上に翻された石田三成の大吉大一大万の旗をまともに、天満山を後ろにした宇喜多、小西の大軍を左に見て悠々と馬をすすめる大御所道庵、かくて一わたりの模擬戦がそのあたりで行われること宜しくあって、床几《しょうぎ》場へ納まり、そこで大御所たる道庵が首実検の儀式を行って解散という順序になるのであります。
 かくて、関ヶ原がおそらく慶長五年以来の人出となり、見渡す限りの山々谷々が、諸大名の紋所打ったる旗幟でへんぽんたる有様は、遠く眺むればおのずからその当時を聯想して、人の血をわかし来《きた》る光景が無いではありません。冗談もまた事と所によっては、士気を鼓舞するの勢いとなる、参加するほどの人が、みな多少ともに緊張を感じて行かないのはありませんでした。

         六十五

 今日は、ゆっくり足腰をのばして休み通そうとしたお角さんすらが、この景気に押されてじっとはしておられなくなりました。
 全く素晴らしい景気ですから、ぜひちょっとでも見てあげてください、道庵先生の大芝居がすっかり当っちまいました。
 お供の者から呼び起されて、お角さんがタカを括《くく》りながら、関ヶ原駅頭へ出て見ると、これは確かに一応の眼を拭うて見るがものはありました。
 まず眼を驚かすものは、行手の山々と左右の峯々に立て連ねられた夥《おびただ》しい、諸家の紋所打ったる旗幟《はたのぼり》と馬印であります。
 今時、どこからこんなに夥しい旗幟を借り出して来たのかしらん、お祭礼用として村々が神様の旗幟を蔵って置くように、この辺の民家では、こんなにたくさんの旗幟を用意して置いて、戦争ごっこをしたい希望者のために賃貸しでもするものか知らん。そんなことはあるまい、三都の芝居の大道具小道具をすっかり集めたからとて、こうは揃うはずはないんだから、てっきり急拵《きゅうごしら》えの間に合せものに過ぎないのだが、間に合せものにしろ何にしろ、僅か一時《いっとき》の間にこれだけの旗幟をととのえ、それにおのおの、れっきと各大名の旗印、紋所というものを打ち出している。これを見るとお角さんが、道庵先生の腕を凄いものだと考えずにはおられません。先生の腕ではない、こっちから投げ出した百両の金の威力だと考え直してみても、そんならお前に百両やるからこれだけの旗を集めてみろと言われても、残念ながら覚束ない。してみると、道庵先生もやっぱり只の鼠じゃない――口惜《くや》しいという気にもなってみました。
 それはとにかく、女でこそあれ、お角さんのような血の気の多い気象の者には、このあたりにへんぽんたる日本国中すぐった大大名の旗印をながめると、舞台背景そのものが実地であるだけに、芝居の書割より、より以上の実感に迫られ、自分が腕によりをかけて、満都の人気を吸い寄せて溜飲を下げるのも面白いが、こうして日本中の大名を相手に、真剣な大芝居を打ってみる人はさぞ面白いでしょうね。
 男に限ります。男でなけりゃ、こういった大芝居は打てませんねえ――大御所権現様という方のエラサがこうして見ると、はっきり分りますねえ。だが、大御所権現様のエライことがはっきり分ると共に、それを向うに廻した石田さんという人のエラサも一層よくわかりますねえ。さあ、どちらかと言えばわたしはここでは石田三成を買って出ますねえ――勝ち負けなんぞは、お前さん、時の運ですからねえ、これだけのものを相手にとって大芝居を打てさえすりゃあ、勝ち負けなんぞはどうだっていいさ、わたしゃ石田三成を買って出る。
 江戸ッ子であるお角さんをして、思いもよらず江州人石田治部少輔の同情者としてしまいました。
 とにかく、この模擬戦はお角さんをしてお手前ものの興行以上の興味を持たせたに相違ありません。このまま宿に引返して寝てなんぞいられるものですか、行くところまで行って、道庵先生のお手並を拝見しましょうよ。こういう意味で、お角さんもまた手勢を引具して、道庵先生の大御所の出陣のあとを追うて産土八幡《うぶすなはちまん》から、北国街道を小関の方へ、押し進んで行ったものです。
 お角さんが藤川の土橋を越えて、北国街道を進んで行く時分に、大御所の旗下と、天満山の麓に配って置いた小西、宇喜多の先鋒とが、今し戦端を開いたところであります。
 両陣で陣鉦《じんかね》、陣太鼓が鳴る――バラバラと現われた両軍の先頭、いずれも真黒な裸体の雲助で、おのおの長い竹竿を持っている、竹槍かと見れば先が尖《とが》っていない。
 天満山の下なる西軍にも大将らしいのはいるが、こちらの道庵大御所の陣羽織を着て采配を振っている気取り方、それを見ると、お角さんがまた、ばかばかしいねえと、くしゃみをせずにはいられません。
 その両軍の先鋒が長い竹竿で、ちょっと叩き合いがはじまったかと見た途端、本陣の旗もとで一声高く法螺《ほら》の音が響き渡りました。これはもとより進めかかれの合図ではなく、戦端の開かれたのをキッカケに休戦の合図であって、火花を散らさんとする途端で鉾《ほこ》を納めて、これから幕僚の講評にうつる順序のための法螺の音でなければなりません。
 困ったことには、この休戦の合図が徹底しませんでした。いや、徹底はしたけれども実行されませんでした。
 もちろん、このくらいの高音に鳴らした法螺の音ですから、敵味方の間に透徹しないはずはなかったのですけれども、騎虎の勢いに駆《か》られた接戦の両軍の軍気を如何《いかん》ともすることはできませんでした。
 はからずも休戦の合図が、突貫の号令となり、忽《たちま》ちその長い竹竿で、突合い、なぐり合いがはじまると、仮戦は全く実戦に入りました。
「あっ、こういうはずじゃなかったんだ」
 本陣の大御所はそれと見て狼狽し、左右に命じてあわただしく、第二の休戦の法螺をいよいよ高々と吹かせました。
 だが、この高らかに吹かせた第二の休戦の合図が、ついに乱戦の口火となってしまったのは、是非もないことと言わねばならぬ。
 竹竿での叩き合いを事面倒なりとする裸虫の雲助は、竿を投げ捨てて組んずほぐれつの大格闘に移り、その惨憺たる有様、身の毛もよだつばかりになりました。
「大将の命令を聞かねえか、休戦の合図が耳に入らねえのか、実地と芝居の区別がつかねえのか――やめろ、やめろ、戦《いくさ》をやめろ! 休戦だよ、休戦だってえば」
 こういって馬上の大将は、わめき立てたが追っつかない。乱戦激闘がうずを巻いて手のつけようも、号令の下しようもないので、道庵先生が馬上で指を噛《か》みました。

         六十六

 ここで道庵が指を噛んだのは、全く芝居でもなければ、日頃の手癖でもなく、これはまた真剣に、大変なことになっちまった、どうにも始末がつかねえ、という絶体絶命の表情でありました。
 ところがこの時分に、見物の中に、二人の異様な人物がいて、道庵先生の指を噛んだところを大問題として、真剣に取扱っているという場面がありました。
 その二人というのは、見覚えのある人はあるべき南条と五十嵐との二人の浪士であります。これも計らずこの辺へ通りかかって、今日の模擬戦を最初から極めて興味を以て見物していたのだが、道庵先生がいよいよ指を噛む時節になって南条が言いました。
「いよいよ、古狸も指を噛むようになったな。およそ日本の歴史上に、この関ヶ原の合戦ほど心憎い戦《いくさ》というものはない。すべての戦が、すべて勝負は時の運ということになっているのだが、勝敗の数をあらかじめ明らかにして、しかも最初からわかりきったはめ[#「はめ」に傍点]手にかけ、目指す大名を、豚の子のようにみな相当大きくしてから取るといった図々しい横着な戦争というものは他にあるべきはずのものじゃない。徳川の古狸を心から憎いと思う者も、その力量のあくまで段違いということを認めないものはない。それでいて、戦うものは戦い、敗れるものは敗れて亡びなければならないというのが運命だ。悠々《ゆうゆう》として落着き払って、遠まきに豚を檻の中に追い込み、最後にギュッと締めてしまう、すべてが予定の行動だ――こんな行動と結果のわかりきった戦争というものは無いが、ただ一つわからないものがある。それはあの古狸が、秀秋いまだ反《そむ》かざる前に伜《せがれ》めに計られて口惜《くや》しい口惜しいと憤って指を噛んだということだ。家康は若い時から、自分の軍が危なくなると指を噛む癖がある、その癖がこの際に出たということはわからない――本来この関ヶ原の戦は、家康が打ったはめ[#「はめ」に傍点]手通りに行っている戦で、どう間違っても家康に指を噛ませるように出来ていない芝居であったのが、あの際、指を噛ませることになったのは、たしかに芝居ではない、家康としては、重大なる不覚といわなければならぬ。本因坊が石田、小西の四五段というところを相手にして、終局の勝ちは袋の物をさぐるような進行中、指を噛まねばならなくなったということは、たしかに失策であり、そうでなければ誤算なのだ。本来、あの際に、誤算なんぞを、頼まれてもやるべき家康ではない、幼少以来鍛えに鍛えた海道一の弓取りだ、敵を知り、我を知ることに於ては神様だ。あらかじめ斥候《せっこう》の連中が皆、上方勢を十万、十四五万と評価して報告して来るうちに、黒田家の毛谷|主水《もんど》だけが、敵は総勢一万八千に過ぎないと言う。軍勢をはかるには、京大阪の町人共が算盤《そろばん》の上で金銀米銭の算用をするような了見では相成らぬ、なるほど、上方勢十万も十五万もあるだろうが、高い山へ陣取っているものは、平地の合戦には間に合わぬものだ、上方勢で実戦に堪え得るものは一万八千に過ぎない、それ故、味方大勝利疑いなしと毛谷主水が家康の前で広言して、家康をして、『よく申した、武功の者でなければその鑑定はできない』と言って、手ずから饅頭《まんじゅう》を取って毛谷主水にくれた。無論そのくらいのことは家康はとうに読みきっている。今いう、毛谷主水の一万八千人は、つまり石田の手兵五千と小西の六千、大谷の千五百人というそれに、宇喜多軍の一部を加えたものに過ぎない、とにかく西軍の実勢力は二万に足らぬ小勢であったとは見る人はきっと見ている。その二万に足らぬ小勢が、十万以上の古狸の百練千磨の大軍と、去就《きょしゅう》不明の十万以上の味方を足手まといにしながら、家康に指を噛ませたという超人間力の出所を、もう一ぺん我々は見直さなければならない。ここが家康の誤算なき誤算なのだ。決死の軍に超数学的の援兵がある真実は、幼少の時、阿部川の印地打ちの勝敗を予言したほどの家康は、知って知り過ぎている、それがなお且つ、それを計りそこねたのだ。家康をして、指を噛むことをもう一分遅からしめると、天下のことはどうなったかわからぬ」
 南条が評し、五十嵐が耳を傾けながら、前面の模擬戦の危急を見ている。その時あちらでは、指を噛みきれなくなった模造大御所が、自ら馬を飛ばしたのか、馬が驚いてはやり出したのか、まっしぐらに大御所を乗せて戦争の渦中へ走り込むのを見ました。
「あ、危ない!」
 当年の大御所の指を噛んだという一節を特に強調していた南条もまた、目下の大御所の危急を見て、あっとそちらへ眼を向けないわけにはゆきません。
「言わないことじゃない、生兵法《なまびょうほう》大怪我のもと――道楽もい
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