みをかけて、これがために斬られ、その家の没落を招いた――いかに高い地位におごっていながらも、系図に於ける貧弱の念が、武家の運命を左右するほどの事態を生ませる力はある。
 岡崎藩の美少年は、いずれにしても容易ならぬ事件が出来《しゅったい》したものだなと思い、且つまた自分が附くことになっておりながら、いろいろの複雑した旅行ぶりのために、充分に目が届かなかったことを悔い、その償《つぐな》いの意味に於ても、夫人の心を回復させるだけのことをしてやらなければならないと覚悟しました。

         六十

 その翌朝になると、道庵先生が壁へ馬を乗りかけてしまって、どうにもこうにも抜き差しのならぬ事態に立至ってしまっているのは、心がらとは言いながら、不憫《ふびん》そのものであります。
 つまり、昨夜来、江戸の金持のものずきなお医者さんが来て、この関ヶ原で、研究のために昔の慶長の合戦の模擬戦をして見せる、それは大がかりなもので、街道筋の雲助という雲助は残らず集め、それぞれ相当の学者も、故実家も集まり、合戦当時の地の理を実地戦争の形にして研究するのだ。
 なにしろ、発起人が江戸で有名な金持のお医者さんで、それが道楽半分にすることだから、金銭に糸目をつけない、近頃での大きな催し物になる――
 そうしてこの模擬戦に参加したものは、誰彼を問わず一人頭に百ずつくれる――それ行って見ろ、という評判が関ヶ原の東西南北に漏れなく伝わったものです。
 ですから道庵先生の野上の宿の前は、夜の明けないうちから、仕事に溢《あぶ》れた雲助をはじめとして、近郷近在の見物人が真黒に寄ってたかって騒いでいる有様です。
 まだ夜が明けきらないうちからこの有様では、日中のことが思いやられる。
 そうして口々に、なにしろ江戸で有名なお金持のお医者さんが道楽半分になさることだ、金銭に糸目をおつけなさらねえ――という評判が道庵の耳に入ったので、いささか宿酔のさめかけていた道庵が、青くならざるを得ませんでした。
 一本の匙《さじ》を振えば天下に恐るるものは無い道庵先生ではあるが、この江戸で有名な金持のお医者さん――という一種特別なるデマには、道庵先生が全く恐れをなさずにはおられません。
 下谷の長者町あたりでこそ、有名は有名に相違ないが、誰も道庵先生を金持だと信じているものはないから、いかに大言を払っても、税務調査委員が、真剣には取合わないからいいが、旅へ出てはそうはゆかない。こういうデマのもとに、こういう人気を呼んでみると、この場に於て、信用に答えるだけの自腹を切るか、そうでなければ、こっそり夜逃げをしてしまわなければ乗切れるものではないということを、道庵が感じないわけにはゆきません。
 つまらねえ宣伝をしてしまったものだ、道庵はそれを心から悔いましたけれども、今になっては追いつきません。このまま夜逃げをしようにも、ところは名にし負う関ヶ原の要害ですから、逃げようとしたって逃げらるるものではないのです。
 道庵は全く青くなりました。刻々と詰め寄せて来る溢れ者の雲助と、見物がてら幾らかの日当にありつこうという近郷近在連とが、ひしひしと押しかけて来るのを見ると、もはや絶体絶命だという観念が湧かないでもありません。
 最初、法螺《ほら》を吹く時の考えでは、なあに、こうしてフザケておいて、いざという場合になれば盛蕎麦《もりそば》の一つも振舞って追いかえせば済む――と、このくらいにタカをくくっていたのが、こうなってくると、盛蕎麦の一つや二つでは追っつかない、とにかく相当のことをしなければ、暴動が起る!
 相当のことと言ったところで、仮りにも天下分け目の関ヶ原の模擬戦となれば、少々の費用で済むわけのものではない。道庵先生、多少名古屋に於て信者から草鞋銭《わらじせん》をせしめて来たとはいえ、千両箱を馬につけて来たわけではないし――嚢中《のうちゅう》おおよそお察しのきく程度のものであるのに、それをしもはたいてしまっては、これから先の旅をどうする、おめおめ名古屋くんだりへ引返して泣き言をいうことなんぞは、道庵先生の面目にかけてもできることではないのです。
 そこで、さすがの道庵が全く青くなって、なお刻々に増して来る雲助と見物を眼前に控えながら、為《な》さん術《すべ》を知らないのであります――といって、為さん術を知らないままですまし込んでいるわけにはなおゆかない。
「こりゃあ、実に弱った――どうしていいか、おれにゃわからねえ」
 可憐なる江戸仕込みの大御所は、ここで進退|谷《きわ》まって悲鳴を上げました。慶長五年の時に、もし小早川が裏切りをせず、毛利が、うしろ南宮山からきって下ろしたならば、本物の徳川大御所も、ちょうど目下の道庵先生と同じような窮境に立ったかも知れません。
「どうしていいか、おれにゃわからねえ、友様――ああ頼みきったる米友公――せめてあの男でもいてくれたら、何とか相談相手にはなろうものを……」
 国衰えて忠臣を思うの時です――この窮境に於て、道庵が頼みきったる郎党米友のことを思い出してその名を呼びましたけれども、それは、もう一駅先へ泊っている。

         六十一

 けれども、全く道庵の日頃の心がけがいいために、はからずも東西から援兵が、この危急の場へ送ってよこされました。
 その一方の援兵は、昨晩、関ヶ原へ先着してお銀様を見守ったところの米友が、早朝この野上の道庵大御所の本陣へ馬を乗りつけたことと――一方、東からはまだ到着はしていないのですが、お角さんの一行が垂井を出発したからほどなくこれへ見えることでしょう。
 前路より米友、後陣よりお角さんの一行が到着してみれば、道庵も、この苦境を乗り越すことができないまでも、苦衷を訴えることだけはできる。
 米友が到着したのを見ると、道庵が米友の前へ走り出して、思わず掌《て》を合わせました。
「友様、何とか知恵はねえか、お前の知恵で、何とかこの場を切り抜ける工夫はねえものか、後生《ごしょう》だから頼む」
と言って道庵は、事の始終を米友に向って手短かに物語って、泣きついてみたものです。
 暴力の場合には、米友に向って頼むということを言ったのは、道庵としても一再ではないけれど、知恵分別のために米友に泣きついたのは、これがはじめてでしょう。しかし、先生の頭で知恵分別に余ることを、米友の頭で解決しようとは無理です。結局、
「おいらも、どうしていいかわからねえ」
「弱っちまったよ、ほんとうに今日のことは冗談ごっちゃねえ、あれ外の騒ぎを聞きな、あの通りだよ……」
 耳をすますまでもなく、今や野上の上下から、関ヶ原駅頭を埋めるとも言いつべきほどの人だかりは、全く道庵一人を目にかけて群がり集まったもので、それが口々に、
「何しろ、お江戸、徳川将軍家のお膝元で指折りの有名な金持のお医者さんが、道楽半分になさることだから、金銭に糸目をつけねえ、何しろ江戸で有名なお金持の……」
 江戸で有名はかまわないにしても、金持はよけいなことだ、道庵や、蔵園三四郎にそんなに金があるか無いか、ここへ出て財布を振ってみろと血眼《ちまなこ》になってさわいだところで追っつかない。
「どうにもいけねえ、へたに出りゃ暴動が起って袋叩きだ――じっとしていれば時刻が移る、友様後生だから何とかしてくんな」
 後生だからと言われても、この際、米友には、得意の槍先をもって応援を試むるというわけにもなんにもゆくべきではなかったのだが、物は相談であって、偶然にも米友の窮した頭に閃《ひらめ》いたと見えたのは、
「先生、こうしちゃどうだ、こんな問題は、親方のお角さんに捌《さば》きをつけてもらっちゃどうだね」
「えらい!」
 道庵がけたたましく叫び続けて言いました、
「そいつは、いいところへ気がついた、あの女なら、何とか捌きをつけてくれるかも知れねえ、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》だ」
「じゃあ先生、親方はこの一つ向うの宿にいるから、おいらからひとつ、頼みに行って来ようかな」
「頼む――」
 道庵はまた米友を拝みました。
 事はお芝居のようなものである。金持が道楽でやる研究心から起った模擬戦とは言い条、本来、芝居気たっぷりの催しなんだから、これは道庵が必死になって匙《さじ》を振り廻すよりは、餅屋は餅屋、興行師のお角さんならば何とかしてくれるかも知れない、全く友様もいいところへ気がついた、負うた子に浅瀬を教えられるとはこれだ。一も二もなく道庵が米友の提案に同意すると、米友は、そうでなくてもここで一応先生に挨拶して、そうして垂井のお角さんに復命しなければならない道筋なのですから、いざとばかり、また馬に乗って、群がる軍勢の中を垂井へ向けて乗り切ろうとするところへ、運よくお角さんの一行が乗りつけて来ました。

         六十二

 人を分けて、宿の一室で、道庵先生から一伍一什《いちぶしじゅう》を聞かされたお角さんが、いかにこの江戸で名代のお医者さんが、旅へ出ると小胆であり、無気力であるかということに、呆《あき》れてしまいました。
 関ヶ原で東西の大模擬戦をやるなんていうことは、道楽にしたって胸が透かないことじゃない、江戸ッ子のやりそうなことじゃないか、その点はさすがに道庵先生だと賞《ほ》めてやりたいが、あとの締めくくりが全くなっていない。いや、興行師としてのお角さんから見れば、なっていないどころではない、なり過ぎているのだ、江戸ではピーピーの大関のくせに、旅で大金持にされてしまっているのは、ウソにも大当りじゃないか、おれはお金持だと言っても本当にしてくれない世の中なのに、先方から金持にしてしまってくれているのだから大出来です――その求めて許されない宣伝名を、儲《もう》けながら持扱っているこの大御所様の腰の弱いこと。
 どうして、人というものは、集めようとしてもなかなか集まらないものを、集めようとしないで、この人数に押しかけられる道庵先生の人徳は大したものなのさ、その大した徳分を自分が持ちながら、自分で持扱っている、何という知恵のない先生だろう。
 お角さんが、道庵先生の絶体絶命の態《てい》を見て笑止《しょうし》さに堪えられないでいるのは、さすがに商売柄です。道庵先生は、今、人の集まったことに押しつぶされ、空宣伝の利き過ぎたことに窒息しようとしているのだが、お角さんにとってはこれが商売であり、これがなければ生きて行かれない――どころではなく、多分の費用を用い、苦心を凝《こ》らして宣伝しても、人が来ない時は全く来ない、千両役者をかけてみても、来ないとなると首へ縄をつけて引張っても客は来ないものであるのに、こんなに押しかけて来ている客を、怖れて青くなっている道庵先生。
 お角さんは気の毒でたまらない気になって、
「御安心なさいよ先生、匙《さじ》の方にかけては先生が御本職ですけれど、人の頭数を読んで生きて行くのがわたしの商売なんですから、こんなことの捌きは朝飯前の仕事です、万事、わたしが引受けました、先生は暫く大御所の席をおすべり下さい、これからわたしが臨時に女大御所となって、関東軍を引廻してお目にかけますから」
 お角さんに笑いながらこう言われて、道庵先生は一も二もなく大御所の席を辷《すべ》り下り、
「頼む、餅屋は餅屋に限る――その代り腹が痛えとか、癪が起ったという時は、いつでもおいらの方へ言ってよこしな――」
 ここで、こんな負惜みを言う道庵にとっての恐怖は、お角さんには興味でありました。やむなく、道庵のもてあました軍勢を引連れてお角さんが、ここ美濃の国、不破の郡、関ヶ原で采配《さいはい》を振ってみようという段取りにまでなりましたが、本来、お角さんは、自分が興行師であって役者でないことをよく知っている。そうしてこの際、采配を振るとは言うけれど、自分が金扇馬標《きんせんうまじるし》を押立てて本陣に馬を進めようというのではなく、表面はどこまでも道庵に芝居をさせて、自分は軍師としての采配を振る――という行き方は、お角さんらしいものでありました。
 まもなく、前は関ヶ原、後ろは垂井の宿へ人を飛ば
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