ませぬ、興去らば明日にもこの地を引払って、また旅に出でようかとも思案を致しておりまする」
執着と凝滞のないらしい関守の返事。
五十四
それからここに落合った四人の漂浪の客の間に、焚火をさしはさんで、旅の話の興が湧き上りました。誰と誰が何を言うたと、いちいち記号をつけないでも、おのずから、しかく言うべき人の、しかく言うなる言語と感情の特異性はありましょう。なかには、のほほんで全く沈黙に終っている人もあるし、一人がほとんど、議長ででもあるかのように、会話の音頭を取らずにはおられぬ人もありましょう。
「おたがいに行方《ゆくえ》定めぬ旅の空、旅路の中に旅を重ねて行くような人が集まったものです。さて、おのおのの落着くところはいずれのところでありましょうか」
一人が言うと一人が応じて、
「人間の世間に落着くところなんぞはないはずでした」
「それはありませんさ、人生は永久不断の旅のようなものですからね。でも、旅する人にも、一夜一夜の宿りというものはあります」
「一夜泊りの浮寝鳥なんていう、はかないものでなく、土から生えて抜けない人生の安息所が欲しいとはお思いになりませんか」
「土に生れて土に帰る、やっぱり故郷というものが、最後の安息所かも知れません」
「いいえ、人間は生れた母の腹へ帰れないように、故郷なんぞへ帰って落着けるものではないと思います」
「では、死というものですかな、死が万事の終りであり、一切の安定というところですかな」
「死ななくてもいいのです、死というものは生命の終りだか、更生の初めだか、そんなことは弁信さんあたりの言うことで、わたしたちの知ったことじゃないと思います、静かに思いのままに生きて行ける道が、人間の世になけりゃならないはずです」
「加賀の白山、飛騨の白水谷のあたりに畜生谷というところがあって、そこにはこの世の道徳もなく、圧制もなく、服従もなく、人間が何をして生きて行っても、制裁ということの無いところだそうだ」
「わたしは、そういうところへ落ち込もうとは思いません、また、人を導いてそんなところへ落してしまおうとも思いません、わたしは自分の力で、自分の本当の世界をこの世の中に作りたいと思っております、人間の手でそれが出来ないはずはないと思っています」
「ははあ、人間の手で、人間特有の理想の浄土といったような世界が出来て、人間自身がそこに安住なし得る時があると思召《おぼしめ》しますか」
それは関守の疑問のようです。それを受けて、当然お銀様の声でこういう議論が聞えました、
「わたしは、この世で、人間が人間を相犯《あいおか》さないという世界を作りたい、相犯さないということは、いわゆる悪いことをしないということじゃありません、何をしようとも自分の限界が犯されない限り、他の自由を妨げてはならない――という領土を作ってしまいたいと思います」
「それは容易ならぬことです。第一、その領土をどこから手に入れますか、領土を手に入れた上に、そのもろもろの設備といったようなものの莫大な資金をどうしますか」
「もし、それが金銀の力で出来るならば、わたしにはその力があると申し上げずにはおられません。当然、わたしたちに分けてもらえるところの先祖からの財産があるはずでございます、わたくしは時とところとをさえ改れば、その資本で、その目的を実地にやってみよう、やれないはずはないと思わないことはありません」
これもお銀様の言葉でした。
五十五
金力がすべてを解決する――というような論理は、知らず識《し》らずお銀様も父の子でありました。
「自分たちの領土といっても、それを支配するの、管理するのという面倒なんぞは、わたくしにはやれません、ですから、それは、やっぱり人を雇ってさせます。お金を出しさえすれば、人は喜んで、わたしたちのために働いてくれます。そうして置いて、わたしたちは、その領土へすっかり牆《かき》をこしらえてしまって、自分の思う通りの人を集め、思う存分のことをしてみます。故郷なんぞに安息の地があろうはずはなし、また、古来伝説の国をたずねて、あこがれるほど無邪気でもございません。こうして旅をしているうちにも、ここと気に入った土地が見つかったら、故郷にあるわたしの分の財産をすっかり投げ出して、その土地を求めて、そういった領土をこしらえることに致そうと思わないではありません」
そこでお銀様の言葉が熱を帯びて、全く真剣になってくるところを見ると、お銀様は日頃そういう具体的の抱懐を持っていたに相違ない、それが今晩は時と人とを得たものか、自分ながら抑えきれないほどに昂奮して、その抱懐をぶちまけてしまったらしい。その言うところを聞いていると、そこでは、人々が相愛することは自由であると同時に、人の愛を犯してはならない、愛することが自由ならば、その自由を異動させることも自由でなければならぬ、物の相愛を犯してはならないように、その愛の異動をも妨げてはならない、愛は報酬関係であってはならない、また権力関係であってもならない、愛の異動を水の流れのように承認する以上は、嫉妬というものが微塵《みじん》も介在してはならない。
たとえば、自分の眼前で他の相手を愛しても、戯れても、それを妨げてはならない、それを嫉《ねた》んではならない、まして復讐の手段を講ずるなんて、そんな不条理のことをしてはならない――お銀様はこういうような愛情についての自分の論理を根強く主張しましたが、
「わたしは今、愛情のことばかり言いましたけれども、わたしたちが住もうという世界は、愛情の自由を与えることばかりではありません……有形にも、無形にも、人間のすることに人間が決して干渉してはならないのですよ、圧迫してはならないのですよ。そこには、服従の卑屈があってはならないように、勝利の快感もあってはならないのです」
不思議とも、矛盾ともたとえようのないのは、故郷にあっては無比の暴君として、親をももてあまさせているお銀様が、ここで自分の描く世界には、全く圧制というものの無い世界を説いています。
無制限に許してしまえば、罪というものはないものですよ。同時に無制限に禁じてしまえば、そこにはまた罪は起りません。許す者には許し、禁ずる者には禁ずるから、そこに不平が起り、反抗が起ります。不平と反抗の起るところに、暴圧の力が来るのは影と形と離れないようなものです。世間の人は、わたしを暴女王だと言います。それならそれでいいから、わたしに絶対の暴圧を許してみて下さい、わたしは決して暴君ではあり得ないのです。そうでなければ、絶対の力でわたしを威圧して下さい、わたしたちの暴虐なんぞは物の数にも入らないはずでございます。
わたしは、物を惜しみはしませんよ、もし与えていい人が見つかったら、なんでもかんでもみんな、洗いざらいその人にやってしまいますよ、ここからここまでと区分して、おれの物だ、かれの物だなんて、ほんとうにばかばかしいことの骨頂です。所有慾というものは、悪魔の拵《こしら》えた人間への落し穴の、いちばん巧妙で、そうしていちばん危ないものなのです。
ごらんなさい、総ての人間界の浅ましい葛藤《かっとう》のすべては、みんなこの所有という悪魔の巧妙な眩惑のわなにひっかかったその結果じゃありませんか。所有によって人間はみな魔薬をかけられて、それを多く所有しているものが最も富める者で、最も幸福なりという観念ほど、人間を迷わす大きなものはありません。それに迷わされて、持たなくても済む重荷にうんうんと押しつぶされている、人間の浅ましさほど笑止なものはありません。
所有が決して、富をも幸福をも齎《もたら》さないのみならず、かえってその反対と裏切りとをつとめていることは、物事をじっとほんの少しばかり眼を留めて見つめていれば直ぐに分ることなのに、ですから、わたしの領土では、決して一事一物をも所有ということを許しません、形の上でそれを許さないのみならず、所有を思うことをさえ許さないのです。
それはそうなければなりますまい、あらゆる眠り薬と、迷いから眼が醒《さ》めて、最後の結局に、自分の持てるものとてはこの身一つのほかに何もないと覚って来た、その背後には、はやこの身一つでさえ、自分のものではないという消滅の神様が、穴を掘って待っているのです。
ああ早くその無所有の領土が欲しい、それを作りましょうよ、わたしはその土地を購《あがな》い求める力がございます――皆さん、わたしに力をかして下さい、おたがいにその世界に住もうではありませんか――とお銀様は、一座の前でこれを絶叫したけれども、無所有の世界を所有せんとするこの撞着《どうちゃく》した熱望について、自身はなんらの矛盾を自覚するほどに昂奮からさめてはいないようです。
そこへ、また颯《さっ》と強い夜風が吹いて来て、焚火を薙《な》ぎ倒そうとしましたので、米友が立ち上りました。
五十六
まもなく、不破の関のあとを立ち出でたお銀様は、米友と相前後して帰り道についたが、二人だけで同行者はおりません。
多分――あの板廂《いたびさし》の――心きいた関守に、大切の人を預けて安心がいけると信じたればこそ、お銀様はなおさめやらぬ昂奮のうちから、関ヶ原の本宿へ帰る夜道を、米友を捉えて、問答を試みました――
「友さん、お前、これから、わたしたちと一緒に旅をする人にならない?」
「ううん」
と米友が、重い含み声で頭を左右に振り、
「おいらは道庵先生に頼まれた人なんだ」
「あの先生のことは、お角さんに任せて置きなさい、そうして友さんは、わたしたちと一緒になるといい」
「そうはいかねえよ」
「いきます、話合いでどうにでもなりますよ」
お銀様には何か期するところがあるらしく、
「ねえ、友さん、これからわたしたちの旅の行先というのは、どこへどう行くのかわからないのですよ。わからないだけに面白いじゃありませんか。道庵先生なんていう人は、ああしてふざけきって歩きさえすればいい人なんです。お角さんていう人も、ああして抜け目なく商売をあさって行けばそれでいい人なんです。道庵先生はお角に任せておしまいなさい、あの親方なら悪いようにはしないでしょう――道庵さんの方でも、友さんなんぞについていられるよりも、女軽業の親方をダシに使って歩いていた方がお歯に合っていいでしょう、ね、友さん、そっちは、わたしがいいように話をして上げるから、これからわたしと三人だけの旅をしましょうよ」
「いったん約束したものを、そう自分勝手のことはできねえ」
それでも無事に宿まで帰りつきました。
米友の眼から見れば、この手のつけようのないやんちゃなお銀様、今夜夜遊びをして、したい三昧《ざんまい》のことをし、言いたい三昧のことを言っている、知らず識《し》らずそれのお守役をさせられて来た米友に、何だ、ばかにしてやがら――という啖呵《たんか》を切るの思案さえ与えません。
しかし、今晩は特に警戒を要するのだという、米友の責任感だけは強まりました。
いよいよ図に乗って、あの二人は、ああしてこれから手に手をとって、どこという当てもなく旅に出かけるつもりらしい。考えなしの至りだが、あの我儘《わがまま》なお嬢様なるものの仕事だから、何をやり出すか知れたものではない。自分たちが実行するだけでなく、この米友をも捲添えにしようとそそのかしをかけるんだから恐れ入る。
まあ、それ、親方のお角さんでさえもてあます別仕立ての難物のことだが、まんざら馬鹿や気ちがいでもないのだから、そこには程度というものがあるだろう。明日になって親方に引渡してしまえば、それで自分の責任は済むというものだが、大事なのはその明日の朝までだ。今晩のうちに飛び出されてしまった日には、自分の責任がフイになると同時に、お角さんのお目玉のほどが思いやられる、それよりは、頼まれた自分としての面目が立たないということになるのだ。
今晩一晩は寝ずに、お銀様の行動を監視していなければならないと考え、そうしてその実行上、お銀様の寝
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