》えでもなし、全く格に無いところのダラリとした下げっ放しなのですから、刀をさげていないと見ることが、正しかったくらいのものであります。
「おっと、待ちな!」
と、その時に米友が持前の奇声を発しました。
これは充実した気合ではなく、むしろ充実が脱け出した意外の表情に出る奇声でありました。
「や――お前《めえ》は、その、いつかの弥勒寺長屋《みろくじながや》の、その、あれじゃねえのか」
「うむ――」
「本所の鐘撞堂《かねつきどう》の弥勒寺長屋に、おいらと一緒に住んでいた、あの時の、あの人じゃねえのか。お前という人は、もしそうならそうだと言ってくれ――江戸の本所の鐘撞堂新道の、弥勒寺長屋に覚えはねえか、それとも、甲斐の甲府の城下の闇夜の晩……」
杖を構えたなりで、穴のあくまで相手方の覆面をしない面《かお》を見詰めて、米友がこう呼び立てたものです。ところが、
「そういうお前は友造だな」
「うむ、いかにも、友造だ、その時の友さんがおいらなんだ」
「そうか」
先方は、実に憮然《ぶぜん》たる返答ぶりでありました。
あわただしく杖を畳んだ米友が、その間に一文字に、二間余りの川幅をふっ飛んで、つい先方の胸元に迫り、そのまま自分の顔を突きあげて、相手方の顔をなめるように、つくづくと見上げて、
「違えねえ、違えねえ――お前は弥勒寺長屋にいて、おいらと一つ鍋の栗を食ったことがあるだろう、そうしておいらを出し抜いて、毎晩毎晩脱け出してどこへ何しに行った、それを今ここで、おいらに素っぱ抜かれたら困るだろう!」
米友が連呼しながら、水のように澄んだ相手方の身の廻りで、幾度も幾度も地団駄を踏みました。
五十二
それよりも意外に早かったことは、米友なればこそ一飛びに跳ね越えた二間有余の黒血川の流れを、裳《もすそ》も濡らさずに渡って来たお銀様が、米友の覗《のぞ》き込んだ面を、無遠慮に横取りしてしまって、
「まあ、あなたは、わたしのあなたではありませんか、どうしてこんなところに……まさかこの声と、この熱い手とをお忘れにはなりますまい、染井の屋敷のことは夢ではありませんでしたねえ」
その、自分では熱いという、見た目には白いお銀様の手が、するすると相手方の首を抱いてしまい、米友の見る前で、熱鉄のように熱い唇が、溶けるように物を言いました。
「ああ、友さん、お前はいい人をわたしのために見つけておくれだったねえ、このお礼は何でも望み次第よ」
お銀様は、その澄みきった人の身体を、火になれ、水になれと、からみついたまま離れません。
米友でさえが、この吐く息、吸う息を、巨蛇《おろち》の息ではないかと疑ったほどで、相手を丸呑みにしてしまう執着を、さしもの米友が目の前で見ながら、手をつける術《すべ》も、文句をいう隙もないのです。
「ああ、わたしはこの旅のうちに、きっと、あなたに逢えるように思われてなりませんでしたが、果して……それでも今晩このところで、こうして逢えるとは誰が思いましょう、わたしは今晩に限って、こんなに彷徨《さまよ》い出たというわけではありません、今晩わたしは一つの死んだ人の骸骨を探しに出かけたのが幸いになって、生きたあなたを見出しました、もう放しません、放すことではありません」
「ああ、お銀どの、ここは美濃の関ヶ原ではないか、ここでそなたに逢えようとは誰も思わない。無事でしたか」
「あなたこそ、よく御無事でいて下さいました、ほんとうに御無事で、ちっとも変りません、相変らず、何というこの肌の冷たいこと。それで、まだ持って生れた悪い道楽がやめられませんのねえ」
ほんとうに熱い――女の執念が、道成寺の釣鐘をどろどろに溶かしてしまって、七日の間、人が寄りつけなかったというような伝説を、米友もほのかに聞いている。
冷静で、権があって、人を人とも思わぬお銀様という人が、一団の火のかたまりのようになって、この人にぶッつかり、吸いつき、しがみつき、燃えつく執着を、米友がはじめて見ました。同時に言い知らぬ危険を感じはじめたのは、全く自分の眼の前で、この女の人が、この男を湯のように、鉛のように、溶かしてしまいはしないかとの怖れでした。
その時にお銀様は、米友の方へ顔だけを振向けて、
「友さん、お前もし、そこでわたしのすることが見ていられないなら、見ていられないでいいから、ここを離れて頂戴――少しの間でもいいから、どこへか行ってしまって下さい。わたしはこの人に向って言わなければならないことがたくさんあるのです。ですから友さん――お前、見ていられないに違いないから、おとなしく外《はず》して項戴――ああ、そうそう、いいことがあります、あれあの通り尺八の音が聞えています、お前さんはこれからあの笛の音をたよりに不破の関の跡まで行って、そこで、わたしたち二人の帰るのを待っていて下さい、そんなに長いことじゃありません――わたしたち二人が、ここで何をするか、何を話すかはお前さんが聞いていても、見ていてもつまりません」
「ふーん」
「お帰り、いいから帰って頂戴。こういう時は、おとなしく席を外すのが人情というもの、礼儀というものなのよ――関所へ先廻りをして、少しの間、待っていて頂戴、直ぐ後から行きます」
「ふーん」
「お帰りなさい。帰らなければいいよ、わたしはお前の見ている前で、わたしのしたいことをしたり、言いたいことを言ったりするから」
「ふーん」
「友さん、お前は、お角の言うことなら何でも頭を下げて聞くくせに、どうしてわたしの言うことを聞かないの。ようござんす、それほどわたしをばかにするなら、わたしにも考えがあるから」
「そりゃ、行けと言えば行きまさあ、だが……」
「行けと言ってるんだからおいでなさい、先へ帰っていて下さい、お前がいては、この人と肝腎《かんじん》の話をすることができない、この人と思いきり話をすることができないから、後生《ごしょう》だから……」
「帰る、帰る、そうまで言うんなら、おいらは先へ帰ってやらあ」
「帰って頂戴――でも、よそへ行っちまってはいやですよ、つい、わたしたちも後から行くから、いま言った不破の関の関所の跡、あの笛の音のするところが、たしかにそうよ、あそこで待っていて頂戴」
「うむ――」
宇治山田の米友は、後ずさりにすさって黒血川の汀《みぎわ》へ来て見ると、自分の手から飛び離れて、一度宙天へ飛んだ英雄のされこうべなるものは、無事にまた、洗われたいささ小川の中に落ちて、流れの真中の浅瀬にかぶりついたまま、パッカリとうつろになった大きな眼窩《がんか》が生けるもののように、男女相擁しているあなたの岸を見つめていました。
一旦、それにギョッとした米友は、
「ちぇッ、何が何だかわからねえが、天下無類の我儘娘《わがままむすめ》の仕事だ、見ちゃいられねえや」
と捨ぜりふで驀然《ばくぜん》として、道なき道を「関山月」の曲の音をたよりに走り出しました。
五十三
命令されたのか、懇願されたのか、哀求されたのか、追払いを食ったのか知らないが、とにかく宇治山田の米友は、ひとり短笛の音をたよりに、程遠からぬ不破の古関のあとへやって来ました。
なるほど、短笛の音はここより起ったに相違ない。あわただしく米友が駈けつけると共に、その音はやみました。
「誰じゃい」
「こんばんは――」
「何しにおいでだね」
「少しの間、ここで待たせておくんなさい」
「ゆっくりお休みなさるがよい」
関守のあるじは、笛の清興を妨げられたことを咎《とが》めないで、快く米友の縁に待つことを会釈《えしゃく》しました。
思うに、月明の夜、こんなところへわざわざ訪れて来るほどのものは、たとえ、その者に多分の不作法の咎むべきものがありといえ、詮《せん》ずるところは風流を解するところの人でなければならぬ、自他の風流を相許すこそ風流人の礼儀なれ。
そこで、尺八をやめた庵《いおり》の主は、米友を談敵《はなしがたき》としてもてなしはじめたものです。
ところが、押しても、突いても、この男からは風流の音が出ないことを一時は意外なりとしましたが、また改めて、そこがまた一風流なることをも許したもののようです。
味もそっけもないこの風流漢は、羅漢を噛《か》み潰《つぶ》したような面《かお》をして、縁に腰をかけたままで、お愛想一つ言わないから、関守の主も強《し》いてそれに取合わないで、またおもむろに歌口をしめして、前の一曲を吹きすさませたものですから、自然、縁に羅漢を噛みつぶしている米友の形が、神妙に「関山月」を聞き惚れるところの童子の形となりました。
関守の主は、吹いて吹いて吹き続けているうちに、ぱったりと月が落ちて、天地が暗くなりました。
暗くなると共に、秋の夜風が特にざわめいて――
「どうです、月が落ちました、焚火でもおはじめなすっちゃあ」
また、尺八をやめて、縄のれんの中から関守が一抱えの薪をかかえて庭へ下りました。
「そこらから、杉の落葉を少し掻《か》き集めて来て下さらんか――この辺のところへひとつ、焚火をいたしましょう」
方形、輪形、柱形、自然石の幾つもある庭の真中の椎《しい》の大木の下へ、薪を置いて、関守がカチカチと火をきりはじめたものです。
米友もそれに手伝って、あたりから落葉と木片とを掻き集めました。
「どちらからおいでなすった」
「江戸を出て、中仙道を通って、尾張名古屋の方からおともをして来たんだ」
「おやおや、それはそれは、長路の旅で……してお連れの衆は……」
「連れの衆といっても、途中で変った相手なんだが、今夜はここを合図にして待合わせることにしたんだよ」
「左様でござったか」
これは単に土着の番人ではない、前身には何か曰《いわ》くのありそうな関守です。しかし、前身は何であろうとも、今は万事物穏かな初老人。
火が明々と燃えさかっている。二人が向き合ってそれにあたり出した時に、闇路の外で人の声がありました、
「おやおや、もう一息というところで月が落ちました、それでもここが不破の関屋のあとに相違ありません」
と言って、男の手を曳《ひ》いて、開けっ放した木戸口を、爪先さぐりにそろそろとこの場へ入って来たのはお銀様でありました。
関守と、米友とは、その焚火の光をできるだけ放流せしめて、そうして新たに来合わせた人の道しるべに供しようとする。
「お危のうございますよ、石塔が倒れていたり、木の根が張っていたり致しますから、御用心あそばせ」
初老人なる関守は、やはり万事につけて親切です。
「ごめんあそばせ、深更にお騒がせ致して相すみませぬ」
「いや、風流には、夜の早いと遅いとはござらぬでな、やつがれも、今晩は夜もすがら竹を吹いて吹き明かそうと企てておりました」
「このお縁を拝借させていただいてもよろしうございますか」
「よろしい段か――但し、ごらんの通りの侘住居《わびずまい》、差上げたくも敷物に致すものさえござらぬ始末でな」
「いいえ、その御心配には及びませぬ。まあ、これが古《いにし》えの不破の関のあとなのでございますか」
「ごらんの通り荒れ果てております。荒れてなかなかやさしきは不破の関屋の板廂《いたびさし》、と申す本文には合い過ぎておりますが……」
焚火に照らされた中空の老樹大木が、枝を張って、天空に竜蛇の格天井《ごうてんじょう》が出来ているように見えます。
風がまた強く鳴り出して、壁にかけ捨てにしてあった笠をハタハタと鳴らす。
「あなた様でございますか、さいぜん、尺八をお吹きになりましたのは」
「はい」
「たいそう御風流でございます、このところに永らくお住まいでございますか」
「いいえ、やつがれは本来、ここの関守を頼まれたわけでもなんでもございませぬ、諸国修行の傍ら、これへ立寄りますると、いかに荒れたるが名物の不破の関屋の跡とは申せ、あまり荒れ果てたのみか、この家に『売家』の札さえ張られていたものでござる故に、いささかの金子《きんす》をもって買い取り、仮りの住居といたしましたものでござるが、なに、特別の執着があるわけでもござり
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