いうのは誰のこと?」
「お前、知ってるだろう、両国の女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角さんのことさ」
「あの人が、お前、怖《こわ》いの?」
「怖い――?」
米友は、お銀様から反問されて、思わず眼を円くして地団駄を踏みました。
女軽業の親方のお角さんという女が、お前怖いの……とお銀様から改めて聞かれると、米友が何か知らず自分の胸にギクッと来るものがありました。
怖いものは無いはずだ――鬼だとか、お化けなんというものは、見たという人もあるが、そんなものはこの世に無いものだという人もある。おいらはまだ、お目にかかったことがないから知らない。親爺が怖いと世間の人はよく言うけれど、おいらという人間は、親というものの味を知らねえから、甘いものか、辛いものかわからねえのだ。そのほか、地震だとか、雷だとか、火事だとかいうものは、災難だから、来ねえ前にビクビクしていたってはじまらねえやな――また或る人は言う、借金ほど怖いものは無いと。ところがおいらは怖いほどの借金をまだ持ってみたことはねえ。貧乏はもっと怖いという者があるけれど、その貧乏の味というのも、おいらはあんまり知らねえよ――と言ったところが、お君から笑われたことがある――
「友さん、お前、貧乏の味を知らないんじゃない、お前というものが貧乏そのものなのよ、夏冬一枚の着物で通して、家も無ければ、財産《しんしょう》もないんだから、まあ、友さんぐらいの貧乏人は世間にたんとはありますまい、それだのに、貧乏の味を知らないなんて言うと笑われちゃいますよ」
お君から米友は、こう言って笑われたことがある。なるほど、そう言われてみれば、おいらなんぞは天地間の本当の貧乏人かも知れねえ。だけれど、お君はなおその時に附け加えて言った――
「だけれども、本当の貧乏の味というものは、所帯をもって、子供が出来て困ってみなけりゃわからないというから、そうしてみると、友さんも、わたしも、貧乏とはいうけれど、まだ本当の貧乏の味というものを知らないのかも知れませんねえ」
本当の貧乏と、ウソの貧乏というものがあるかどうか、とにかく、自分たちは、貧乏の味を知っていると、知っていないとにかかわらず、決して金持ではない、貧乏を貧乏として知らずにいるくらいだから、貧乏は決してそんな怖いものじゃないと思っている。
地頭《じとう》が怖いの、泣く子が怖いのというけれども、一定の殿様の下や、お代官地に生業を営んでいないおれたち。道庵先生あたりこそ、怖いと言えば、米友にとって怖い人かも知れないが、自分は先生を尊敬し、服従もしているけれども、或る場合には大いに先生の不謹慎を責めることもあるし、その脱線を訓戒することもある――だから、一応は監督者気取りで、優越感を持ちながらおともをすることもできるというものだ。
昼が明るくて夜が怖いということも覚えないし、物のわかった人間はわかったように扱うし、わからない奴はわからないように、乱暴な奴は乱暴なように、腕で来る奴は腕であしらっている。別段曲ったことをした覚えはねえから、おまわりさんや、刑務所が怖いとも思わねえ、どう考えてみても、天下に自分の特に念を入れて怖がるべき相手の存在はわからないようだが、ここで今、お嬢様から、「お前、あの女軽業の親方が、そんなに怖いの?」と白い歯であしらわれてみると、米友の身体《からだ》がおのずから固くなってくるのを覚えました。
怖い――というのはなんだか業腹《ごうはら》だが、そうかといって、ちっとも怖かあねえ、あんな女軽業の親方なんかあ……と、うっかり口を辷《すべ》らしてしまって、それがあの親方の耳にでも入ろうものなら、この野郎、もう一言いってみな――とのしかかって、頭ごなしにやられる時を想像すると、米友が変な心持になってしまいました。
しかし、お銀様は、それを米友に追究するつもりで言ったのではありません。やがて、冷淡ではなく、冷静に、むしろ物を頼むように米友に向って言いました。
「友さん、わたしのことは、わたしとして間違いのないことをするのだから、心配しなくてもいいよ、親方がお前に何とか言ったら、わたしが申しわけをしてあげる、そんなことは心配しなくてもいいけれど、ここで友さんに、素直にわたしの言うことを聞いてもらいたい」
米友は、お角さんを怖れるように、お銀様を怖れてはいないのです。怖がるよりはむしろどういうものか、一味の同情と、親愛というようなものを感じているのです。
お角さんが腫物《はれもの》に触るように怖れているこの令嬢か悪嬢か知れない難物に向って、米友は少しも窮屈も威圧も感じていないのみならず――何というか、米友自身では名状のできない哀れな感情が働いていて、おたがいにそぐわない会話をしながらも、魂のどこかとけ合って行くような親しみを加えて行くのは、お銀様も知らないし、米友も知らないながら、おたがいに好きだというような感情があらわれて行くのです。好きといったところで、惚れたの腫れたのというわけではないが、おたがいにどうしても衷心《ちゅうしん》から憎み合えないような何物かがあることを、おたがいに気がつきません。
そこで、米友はこうして取押えに来たようなものの、手荒くどうしてもこうしても拉《らっ》して行こうとはせず、お銀様もまた、米友に向って物を頼めば聞いてくれないはずはないといった、安らかな気分で、すらすらと前方へ向って歩いて行くのです。
四十八
暫くして、お銀様は一つの小流れの岸に下り立ちました。
米友も、それに従って、同じ河岸に数歩を離れて立っていると、お銀様は、岸の傍らに一むら茂き尾花苅萱《おばなかるかや》の中に分け入ったかと見ると、無雑作《むぞうさ》にその中から一つの白い円形な物体を取り出して、米友の眼の前に捧げたものですから、米友がまたもその眼を円くして見ると、夜目ながらはっきりと眼底に映り来《きた》るところのものは、まさに人間の一箇の髑髏《されこうべ》でありました。
「友さん――この髑髏を、この川でよく洗って頂戴」
「うむ――」
「この川は黒血川《くろちがわ》という川なのです、昔、大友の皇子と天武の帝の戦《いくさ》のあったことから、黒血川の名が起ったそうですが、それは名前だけで、そのことは千年も昔のことですから、今は血なんぞは流れていやあしません、この通り、鏡のようにきれいな水なんですから、これでよく洗って頂戴」
「うむ――」
米友は、唸《うな》りました、病とはいえ好奇《ものずき》にも程のあったものだが、今まで隠し持っていたとも思われない人間の骨《こつ》を、どうしてここへ持ち出したか、尾花苅萱の中を探って、易々《やすやす》とこれを取り出したようだが、いくら黒血川の岸の尾花苅萱だとて、手品師のようにかねて仕掛けて置かない限り、そう易々と人間の髑髏を探し出せるものではない。
「友さん、そんなに眼を円くして、驚いてばかりいてもおかしいじゃありませんか、これは怖いものではありません、生きているわけではないから、口をあいて食いつきはしませんよ」
「お嬢さん、お前、どこからこんなものを持って来た」
「これは、さっきわたしの手で掘り出して、この尾花苅萱の中へそっと隠して置きました」
「お前という人も、つまらねえ悪戯《いたずら》をしたもんだ――人間の骨を掘り出すなんて、てえげえ手癖の悪い餓鬼でも、それほどな悪戯はしねえ」
「いいのよ、これはわたしに縁のある人の骨《こつ》だから」
「お前に縁のある人って――こんなところに親類があるわけじゃあるめえ」
「ええ」
「よしんば、親類があったからといって、いったん墓に埋めた人間の骨を掘り出すなんて、そりゃあんまり乱暴過ぎる」
「友さんにはわかるまいが、これは、わたしが掘り出して上げるのが、かえって功徳《くどく》じゃなかろうかと思う人なのよ、ですから友さんの手で、この土まみれになったお骨を綺麗《きれい》に洗って上げてください、そうすれば、友さんの功徳にもなる」
「おいらは、そんな功徳はしたくねえ」
「そんなこと言わないで、素直に、この黒血川の流れで、三百年の土のよごれを洗い清めてあげてください。これはね、大谷刑部少輔という人の首なのよ」
「大谷刑部少輔?」
「そんな大きな声を出さなくてもようござんすよ、関ヶ原の時に、石田を助けた日本一の器量人の首だから、わたしもわざわざここまで来て掘り出して上げたのだから、友さんも嬉しがってこれをお洗いなさい」
「おいらあ、嬉しくねえ」
「何でもいいから洗ってあげてください、できなければ無理には頼みません、名将の供養になることだから、わたしが洗います」
「できねえと言やしねえよ、嬉しかあねえと言ったんだ」
「できないことでなければ、やって下さい、この黒血川の水で、幾百年|埋《うず》もれた英魂の泥を、友さんの手で洗って上げてください」
「うむ――なんだか理窟はよくわからねえが、頼まれたことをいやとは言わねえよ」
米友は捨鉢のようにこう言って、杖を下に置くや、お銀様の捧げた髑髏《されこうべ》を引ったくるように受取って、それをいわゆる黒血川の小流れに浸して、ぐんぐん洗い立てようとする。
「あんまり手荒なことをしないように。落ちなければ、この川べりの砂の軟らかいところを取って磨砂《みがきずな》にして、洗ってあげてください」
お銀様は立って、米友の洗濯ぶりを監視するような形で見詰めている。その肩を昼のような月が辷《すべ》って、黒血川の水にささやかな金波銀波を流しています。
四十九
命ぜられた通りに、宇治山田の米友は、与えられた髑髏をゴシゴシと洗濯しているが、なるほど、数百年来英魂を埋めた泥と見えて、米友の精根を以てしても、なかなか落ちないのであります。
「明礬《みょうばん》の水ででも洗ったらどうだか、只じゃなかなか落ちねえや」
黒血川の水を以て洗うのだから、落ちないのが当然かも知れないが、それでも米友は倦《う》まず洗いつづけていると、
「少々ものを尋ねとうござるが――」
尾花苅萱《おばなかるかや》の中を押しわけて来た人の声、それはかなり遠いところから呼びかけたようでもあるし、つい鼻のさきで呼びかけたようでもある。
「うむ――」
米友は髑髏を洗う手を休めないで、声のした方を振仰ぐと、二間とはない川幅のつい向う岸に人が一人立っている。
「関の藤川というのへ参るには、どう参ったらよろしかろう」
「関の藤川でございますか……」
それを引取って答えたのは、米友の後ろにいて首洗いの検査役をつとめていたお銀様の声でありました。
「関の藤川から、不破の古関の跡を尋ねたいのだが……」
「それでしたらば」
お銀様が委細引取ってくれるから、米友は安心です。そうでなくて、斯様《かよう》な返答を自分が引受けねばならないことになると、米友としては苦境に立たなければならない。
それは、この流れが黒血川の流れだということも、お銀様の口から初めて聞いて知ったくらいだから、関の藤川だの、不破の古関の跡だのというものを、不意に尋ねられて、米友に明答ができるはずがないからです。幸いに、お銀様というものがあって、知らざるところを、知れる人よりも周到に教えることのできる知識を備えている。
そこでお銀様は、立ってその人のために、黒血川と関の藤川と混同し易《やす》くて別物であること、だが、その相距《あいへだ》たることは、さまで遠いものでないことが、混同され易い理由であること――関の藤川の名が徒《いたず》らに高くして、その実物は、この黒血川と相譲らないほどの小流れに過ぎないこと、それへ出る道と、藤川の土橋の下からその真上は、もう古《いにし》えの不破の関の跡になっているはずだということを明瞭に教えてやるのです。
それを逐一《ちくいち》耳を傾けて聞き終りながら、向う岸に立って物を尋ねている人は、急いで教えられた方へは踵を向けず、
「あれは、どこから響いて来ますか、あの短笛《たんてき》の音は……」
そう言われて、はじめてこちらの人が聞き耳を立てました。
前へ
次へ
全44ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング