ば近江へ、近江から追われれば美濃へ――
 こうして女も甘ったるいものだが、男の方もかなり甘ったるく出来ている。飛騨の国越えをして美濃の太田へ落着いた晩、この女も今晩のうちに殺してしまわなければならぬ女だ――と幾分の凄味《すごみ》を見せたはずなのに、ずるずるべったりにここまで牛に引かれて来てしまって、寝物語|云々《うんぬん》のいちゃつきにお相手をつとめている。
「ねえ、あなた、ほんとうに乙じゃありません? 寝物語の里なんて、名前からしてよく出来ていますねえ。そこで今晩は寝かしませんよ、今晩こそ、よっぴておのろけを伺《うかが》いたいもんでございますね、寝物語の里で、いびきの声なんぞは艶消しでございますからねえ、寝ようとなさっても、寝かすことじゃございませんよ」
 美濃の国の女は、こう言ってまたひとり、いちゃつき、いちゃついて、甘ったるい自己陶酔がいよいよ溶け出して来る。
 近江の人は、それに返事をしないこと以前の通りだが、「こんな晩、ほととぎすが聞きたいわ」とかなんとか、どちらかの口から一言洩れると、御両人もまだ話せるのだが、女は自己陶酔から醗酵するべちゃくちゃのほかには何の初音ももらさない。男はうんが[#「うんが」に傍点]の声を上げないで寝そべっているだけのものらしい。
「ねえ、あなた、おのろけを伺おうじゃありませんか、ちょいと、近江のお方……」
 いよいようじゃじゃけて手がつけられない。
「女殺し……」
と女が突然に言いました。無論、絶叫ではありません。
「女殺し……あなたという人は、今まで幾人の女を殺しました、さあ、今晩の寝物語に、その懺悔話《ざんげばなし》を聞こうじゃありませんか、ぜひ……白状しないと殺すよ」
 肉感的に圧迫するような声です。
「ようよう、あなた、おのろけを聞かして頂戴よ……今までの罪ほろぼしに、よう」
 両国の宿屋では、軒を隔てて、こんなもだもだの宵の口――車返しへ通ずる表街道は、こんなものではありませんでした。
 この寝物語の里の前で、ちょっと杖《つえ》をとどめた、美濃近江路を通り合せの二人の旅人が、
「よい月でございますなあ」
「ほんとうによい月でございます」
「惜しいことでした、実は柏原からわざわざ疲れた足を引きずって、この寝物語の里を名ざしてまいりましたが、今晩、ここでゆっくり寝物語を伺いたいとの風流があだになりましてな、もう現に先口《せんくち》のお客があって、寝物語の座敷が約束済とのことでがっかりいたしました」
「是非に及びません、関ヶ原まで伸《の》そうではございませんか、荒れてなかなかやさしきは、不破の関屋の板廂《いたびさし》――この通りいいお月夜でございますから、かえって、この良夜を寝物語に明かそうより、明月や藪《やぶ》も畠も不破の関――といった風流に恵まれようではございませんか」
「それは一段でございます。では、これより不破の関を目指して、宿りを急ぐことといたしましょう」
「まだ宵の口でございますから、あえて急ぐ必要もございますまい、関ヶ原までは僅か一里の道、それもこの良夜を、得手《えて》に帆を揚げたような下り坂でございますから」
 こう言って、夜道を緩々《ゆるゆる》と東の方へ立去る両箇《ふたり》の旅人があるのを以て見れば、外は、やっぱり誂向《あつらえむ》きのいい月夜に相違ない。
 この声高《こわだか》な、表街道の風流人の会話に、しばし聞き耳を立てていた美濃の女が、それより、月ともほととぎすとも言うもののないのに業《ごう》を煮やし、
「ようよう、あなた、焦《じれ》ったいわねえ、今晩は天下の寝物語を二人だけで借りっきりなのよ、誰に憚《はばか》ることはないから、おのろけを、たっぷり伺いましょう、夜の明けるまで……ようよう、焦ったいわねえ、白状なさいよう」

         四十一

 柏原の駅で泊るべき予定を、わざわざこの良夜のために、寝物語の里まで伸《の》して、そこで風流を気取ろうとして来てみた、二人の被布《ひふ》を着た風流客は、意外にも、たのみきって来た風流寝物語の里はあだし先客に占められてしまった溢《あぶ》れの身を、せん方なく、もう一里伸して不破の古関で月を眺めることによって、一段の風流を加えようという気になって、得手に帆を揚げるような下り坂の道を、車返しでも踵《きびす》をめぐらすことをせず、悠々として月の夜道をたどりました。
 この二人は、どうやら俳諧師といったような風流人であるらしいが、それは二人ともに被布を着ているから、それで俳諧師という見立てではなく、また俳諧によって点取り生活をしている営業の人という意味でもなく、正風《しょうふう》とか、檀林《だんりん》とかいうまでもなく、一種の俳諧味を多量に持った道づれの旅人と見ればそれでよろしい。
「あれが胆吹山《いぶきやま》でげしょう、胆吹山でないまでも、胆吹の山つづきには相違ござるまいテ」
「してみると、こちら、それが例の金吾中納言の松尾山……」
「これを松尾山と見れば、あれとつながる雲煙の間《かん》のが、たしかに毛利の南宮山《なんぐうざん》でなければなるまいものじゃテ」
 悠々閑々《ゆうゆうかんかん》たる月の夜道で、二人は行手の山の品さだめをしました。
 彼等はほぼ歴史上の知識が教えるところによって、山を断定しているものに過ぎないので、まだこの関路《せきじ》の峡《かい》では、胆吹も、松尾も、南宮山も見えないと見るが正しい、しかし、それらの山の方角を指し、裳《もすそ》をとらえたと見れば、当らずといえども遠からぬものがある。
 二人がめざす不破の古関のところまでは、ホンの一息のところまで来ている。
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秋風や藪《やぶ》も畠も不破の関
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 一人が口ずさんで杖をとどめた時に、もう一人が、
「おや……」
「これは例の妙応寺でござろう、青坂山、曹洞宗、西美濃の惣録《そうろく》――開山は道元禅師の二世莪山和尚。今須の城主長江八郎左衛門重景の母、菩提《ぼだい》のために建立《こんりゅう》――今、伏見の宮の御祈願所」
 もう一人の風流人が、左の方に、とある大寺の門をのぞんで、「おや……」と不審がって杖をとどめた一方の同行に向って註釈を試むると、杖をとどめたのが、身の毛をよだてて首を左右に振り、
「そのことではござらぬ、たった今、この門前に彷徨《さまよ》うていた物影が見えない」
「はて」
「白衣《びゃくえ》を着て、たしかに大小刀を帯して、面《おもて》は覆面していたが、もうその姿が見えぬ」
「はて」
 とどめた杖が震え、その杖によって支えられた足が戦慄《おのの》いているらしい。
「拙者はそれを見なかった」
 一方のが言う。
「たしかに……この目の幻ではござらぬぞ、たしかにその物の影が……但しそれがこの門から出たものか、この内を入ろうとして来たものか、それを見定める瞬間に、その姿が消えてしまいました」
「はて」
「たしかにこの目が……現在見たこの目が僻目《ひがめ》であろうはずはござりませぬが、見届け得なんだこの目は、浮目《うきめ》でござりましたか」
「果して、左様な物影を見られたのか」
「見ました、正明に。ただその動止を突留め外したまでのこと」
「では……」
 どうも、一人がたしかに実際を見たというのに、一人はどうしてもそれを幻影としか受取れない心持――たしかに実際を見たという当人も、それ自身どうも覚束《おぼつか》ない心持――
「ははあ、あれがまさに遊魂というものではござるまいか」
「遊魂……」
「ところは寺院の門前であり、見た目の姿がうつつか、まぼろしか、見た当人をこうも迷わしている。そこで遊魂のたぐいではござるまいか」
「なるほど……」
 一方も深く感激したもののよう。
「東海道の小夜《さよ》の中山では、はらみ子の母の遊魂が、夜な夜な飴《あめ》を買いに出たという、それが思い出される。ただし、いま現にやつがれが見たのは、遊魂にしてはいかめしい」
「両刀を帯びて、覆面をして、白衣をつけて――ああ、古関の夜に彷徨《さまよ》う遊魂……我々の風流も、なんとなく肌寒いものになりました、急ぎましょう」
「急ぎましょう」
 ここで両人が、ぞっとして寒い思いをさせられて、片時も早くこの場を急ごうという気になったのは風流の故ではありません。
 なんとなく、今の遊魂の迫真味が、身の毛をよだてるものとなったに相違ない。
 こうして二人の風流客が、まもなく関の藤川の橋を渡りかけた時分に、
「今晩は、いい月夜でございますねえ、寝物語からおいでになりましたか、へ、へ、御風流なことで……お大事においでなさいまし」
 通りすがりに、イヤに丁寧なお世辞を二人の風流客に送って、行き違う旅人がありました。
「やあ――」
と言ったままこの二人の風流客は、イヤにお世辞のいい一人旅の男を後ろへやり過しておいて、何となしにその後ろ姿を見送って、
「なんとまあ、足の早い旅人ではござらぬか」
「左様……挨拶は歯切れのいい江戸弁でござったようだが、今ごろ一人旅は、飛脚でござろうかな」
「飛脚……それにしては、酒樽を一つ携帯していたようでござったが」
「美濃の養老酒でござろうがな」
 二人はこうして、おもむろに関の藤川の小橋を渡りきると、もう、ついそこがめざすところの不破の古関のあとなのであります。

         四十二

 僅か一里の道を――この良夜の風流客といえども、外を行く時は寒い思いもさせられたり、あらぬ幻影も見たり、いやにていねいな旅人にも出くわしたりするが、うちにいると相変らず、お蘭どのは、その脂《あぶら》ぎった肉体を持扱いながら、どたどたと寝物語の寝床の上を輾転《てんてん》しているに過ぎない。そこへ、
「こんばんは、お隣りのお方から、奥様に御酒《ごしゅ》一つ上げてくれと持って参じました」
 少女が塗りの剥げた膳の上に徳利を一本つけて持って来たのが、さすがのイカモノのどてっ[#「どてっ」に傍点]腹をえぐりました。
「近江のお方が……まあ、なんて心憎い行き方でしょうね、こちらでいくら持ちかけても、いっこう御挨拶もなさらないくせに、搦《から》め手から御酒一つなんて……憎いわねえ」
 横に向いて寝ていたお蘭は、うっぷしに寝そべって、眼の前に置かれた御酒と肴《さかな》を細い目でながめると、
「お酌しましょう、奥様」
「済まないね」
 うっぷしに寝たまんまで、お蘭さんは杯《さかずき》をうけにかかりました。
「寝物語の本場なんだから、ワザとこうしたままいただくのよ、ねえさん、若い人はこんなだらし[#「だらし」に傍点]のない真似《まね》なんぞをするものではありませんよ」
 お蘭どのが、とうとう腹這《はらば》いながら酒を飲みはじめました。
 この女はうわばみのように腹ばいながら、チビリチビリとやるうちに、いよいよいい心持になって寝物語か、管物語《くだものがたり》かわからないように舌がもつれてきます。
「おのろけ[#「おのろけ」に傍点]をたっぷりお聞かせ下さらなけりゃならないのに、そちらでお聞かせ下さらないとすれば、こちらから押しかけあそばしますてんだ――一年《ひととせ》、宇治の蛍狩り――こがれ初《そ》めたる恋人と語ろう間さえ夏の夜の――とおいでなさる……チチンツンツン」
 ところへ、銚子のお代りが来る。この酒が地酒だとばかり思っていたら、思いのほか口当りがいい。お蘭どの、生一本の自己陶酔に気ちがい水が手伝ったものですから、
「俊徳様の御事が、ほんに寝た間も忘られず……チチンツンツン」
 手がつけられなくなって――
 わたし、上方《かみがた》へ行ったら、ひとつ本場の役者買いがしてみたいわ。わたしは嵐吉《あらきち》が贔屓《ひいき》なんだけれど、もっと渋いところとも一晩遊んでみたいわ。でも、役者は一口物で、ちょっと口直しにはいいかもしれないが、長くつき合うとおくびに出るかも知れないねえ。お坊さんにも、今時はなかなか色師がいるんですってねえ。和尚さま、あれさ仏が睨みます、なんて言わせる坊主も罪が深いわねえ。地色《じいろ》はあぶないねえ。だからやっぱり楽しむ
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