を驚かして、
「殿様」
「何だ」
「明日はいよいよ、仙台|石巻《いしのまき》の港へ着くそうでございますね」
「うむ」
「嬉しいな、石巻で、お米や水を積込んで、それから南洋諸島へ渡るんですってね」
 生意気な! 南洋諸島なんていう地名を誰に聞いて来た。
「南洋諸島ときまったわけではない」
「どこでもかまいません、あたいは嬉しくてたまらない、涯《かぎ》りないこの海を眺めるのが好きです、アルバトロスもいます、鯨もお友達です、明日は仙台石巻へ着けば、そこに七兵衛おやじも待っていましょう、田山先生も乗込んでいらっしゃるでしょう、そうしてまたこの限りない大海原を乗り切って行くのが嬉しい、嬉しい」
「茂太郎、勉強しなさい、とにかく、これからみんなして気を揃えて新しい国を作るのだから、お前も歌ばかり唄っていないで、皆の手助けをして、よく働くことを覚えなくてはならない」
「働きますとも――今でも学問は、あたいが一番よく覚えます、それから、水夫さんの手助けでもなんでもして働いていますから、みんなから憎まれません」
「それはよいことだ、船中で誰にも可愛がられ、誰のためにも無くてならぬ人になるように心がけなければいけない」
「あたいは憎まれてやしません」
「一つの船に乗組む人は、陸上の一家族の者よりも気を揃えなければならないのだ」
 そこへ、お松が静かに入って来ました。
「茂ちゃん、船長さんのお邪魔をしてはいけませんよ」
「お松様、あたいはお邪魔なんぞはいたしません、今、殿様と、一つの船の中にいる人は、一つの家族であるよりも親密でなければならないということを話していたのです」
「ほんとうに茂ちゃんは、ませた口を利《き》きますねえ。ですけれどもその通りよ、みんなが全く気を揃えて、大船に乗ったつもりで、船長様を頭《かしら》に戴いて、船の中が一つの領土にならなければ、新しい国は作れません」
 駒井の言うことも、お松の言葉も、茂太郎に対しては、知らず識《し》らず教訓になってくる。駒井をそれを、やっぱりわが意を得たりとして、
「皆のおかげで、処女航海もこうして無事に済んだことが、わしとしては嬉しいが、それよりも嬉しいことは、お松どのの言われる通り、船中みな気を揃えて、よく働いてくれたそのことが、わしとしては何よりも頼もしい」
 駒井がかく言って船中一同に向っての感謝の意を表した時に、こまっしゃくれた茂太郎が、おとなしく受入れませんでした。
「殿様、それは違います」
「何だ」
「殿様のおっしゃることは、それは違うとわたしは思います」
 お松が聞き兼ねて、たしなめました、
「何を言うのです、茂ちゃん」
 茂太郎は屈せず、
「いいえ、本当のことを言うのです、いま殿様は、船の中の者がみんな気を揃えて働いてくれることが何より嬉しいとおっしゃいましたけれど、それは、或る人には当っていますけれど、ある人には当りません」
「茂ちゃん、お前、その物言いは何です、生意気だと言われますよ」
「あたいは本当のことを言っているんですよ、お松様、今この船の中の人は、みんな船長さんのために気を揃えて働いているようですけれど、そうばかりではありません、働かないで楽をしている人があります」
「そんな人はありませんよ、一人だって。みんな、それ相当の持場で何か働いておりますよ」
「ところが、働かない人が少なくとも一人はあります、それは、あたいのお嬢様です」
「あ、もゆるさんのこと」
「そうです、そうです、あのお嬢さんだけは、ちっとも働きません、お嬢さんばっかりは働かないで、遊んで食べています」
「もゆるさんは御病気なんですもの」
 お松が取りなして言うと、茂太郎はそれを打消して、
「いいえ、病気ではありません、病気でもないのに、みんながそれぞれ一生懸命働いているのに、あの人ばかりが働かないで、遊んで食べています」
 駒井も少し苦《にが》い面《かお》をしました。お松は、茂太郎に、そんなにぐんぐん言わせまいと思うけれど、ちょっと手が出せないでいるのを、茂太郎は一向ひるまずに続けました、
「それにマドロス君もよくないと思います、お嬢さんが病気でもないのに、横着をきめて遊んで寝てばっかりいるのをいいことにして、マドロス君が、おいしいものを運んではお嬢様に食べさせているのです」
「そんなことはありません、茂ちゃん、ほんとうにお前は、よけいなことを言いつけ口するものじゃありませんよ」
「よけいなことじゃないのです、本当のことを言ってるのです。で、かわいそうなものは金椎さんです、せっかく丹精して、皆さんに御馳走して上げようとして拵《こしら》えたお料理のいいところを、いつか知らずマドロス君に持って行かれてしまっています。マドロス君はそれを持って行っては旨《うま》そうにお嬢さんと二人でばっかり食べてしまうのです」
「茂ちゃん、およしなさい、そんなことも一度や二度あったかもしれませんが、それを殿様の前で素破抜《すっぱぬ》いてしまうなんて」
「一度や二度じゃありません、いつでもそうです、ですから初物《はつもの》のおいしいところは、二人でみんな食べてしまっているのです、金椎さんも苦い面をしますけれど、あの人は耳が悪いのに聖人ですからね、また機嫌を取直して、誰にも何とも言わないで、またお料理をこしらえ直して皆さんに食べさせてあげるのです」
 駒井も、お松も、茂太郎の素破抜きを、もはや何ともすることができないで、言うだけは言わせてしまわなければならないような羽目になっていると、
「この間もあたいが、何の気もなく部屋へ下りて見ると、マドロス君とお嬢さんとが旨そうにお饅頭《まんじゅう》を食べていました。あたいが行ったので二人はちょっときまりの悪い面をしましたけれど、お嬢さんが、茂ちゃん、お前も仲間におなり、そうしてお饅頭を半分お食べな……と言いましたけれど、あたいはいやですと言って甲板へ出て来てしまいました。あたいは人の悪口を告口するわけではありませんけれど、一つの船の中でみんなが気を揃えて働いているなかに、寝ていて人の拵えたお饅頭を食べているお嬢様の行いはよくないと思います。それもよくないが、せっかく金椎さんが丹精して皆さんに旨《うま》く食べさせようとしてこしらえたお料理やお饅頭を、盗んで来て食べたり、食べさせたりするマドロス君の行いも、道に外《はず》れていると思います」
「茂ちゃん、もうおよし、そうしてお前は、あちらへ行って登様のお守をなさい」
 お松はついに、厳しく叱りました。叱られて船長室を飛び出した茂太郎、上甲板の方で、早くもその即興の出鱈目《でたらめ》歌が聞えます――

[#ここから2字下げ]
お饅頭をこしらえる人と
それを盗む人
せっかく、殿様が
新しい国をこしらえても
汗水を流して働く人と
寝ていてお饅頭を食べる人とが
あってはなんにもなりますまい

駒井甚三郎は船を作り
田山白雲は絵をうつし
裏宿の七兵衛は耕し
お松様は教育をやり
金椎君は料理をし
治郎作さん父子は船頭をし
乳母《ばあや》はお守をし
登様は育ち
清澄の茂太郎は歌う
それだのに
兵部の娘もゆるさんは
病気でもないのに
寝て旨《うま》いものを食べています
それはマドロス君が
持って行ってやるからです

お饅頭《まんじゅう》の掠奪は
パンの搾取ということには
なりませんか

いい着物を着たり
旨い物を食べたりするために
みんなが気を揃えて
働くのはいいことだが
旨い物を食べるために
盗んだり
誘惑したりするのは
それはよくないと
あたいは考えます

お嬢さんと
マドロス君とが
この船の中での
賊でないと誰が言います

ドンチャ
ドチ、ドチ
ドンチンカンノ
チマガロクスン
キクライ、キクライ
キウス

チーカ、ロンドン
パツカ、ロンドン
[#ここで字下げ終わり]

 足踏み面白く、上甲板でダンスをはじめ出したのがよくわかります。

         三十八

 一方、飛騨の高山から朝まだきに出発した二人連れの労働者がある。そのうちの一人はお馴染《なじみ》の紙屑買いの、のろま[#「のろま」に傍点]の清次であり、他の一人はがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であります。
 ただ、お馴染の紙屑買いののろま[#「のろま」に傍点]の清次は相変らずだが、一方がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の方は、今日はすっかり変装を試みて、山奥からポット出の木地師に風《なり》を変えて、そうして天秤棒を一本だけ、お鉄砲かついだ兵隊さんのように、肩にのせてすまし込んで歩いている。
 百は、百として、例の音羽屋まがいの気取った風で、当節の日を歩けないことをよく知っているだけに、そこは抜け目のない変装ぶりに、かてて加えて、のろま[#「のろま」に傍点]の清次という、この辺ではかなり売れている面《かお》なじみの相方を連れているから、こうしてすまして道中もできる趣向となっているようです。
 この道は、先夜――机竜之助と淫婦お蘭が、美濃の金山へ下りた道と同じことであります。そこを、百と清次は悠々として通過しながら会話をしました。
 百の方は用心して、なるべく関東弁を出さないようにしているので、清次はいいことにして、山言葉、里言葉を、ちゃんぽんにして、しきりにはしゃいでいるのです。
 清次はこう言いました、
 ――わしも、いつまでもこの飛騨の山の中に暮す気はござんせん、京大阪の本場へ出て一旗あげるつもりでございやす。
 やっぱり向うへ行っても、当座は紙屑買いをするよりほかは心当りがござんせん。
 だが、紙屑にもよりけりで、高山の紙屑なんぞは、高いと言ったところでせいぜいお代官の年貢帳ぐらいなもんですが、京大阪となれば、同じ紙屑にしても、紙屑のたちが違いますから、儲《もう》けもたっぷりあるというわけなんでござんしょう。
 お公家《くげ》さん、学者、大商人《おおあきんど》といったところの紙屑を捨値で買い込んで、これを拾いわけてうまく売り出しやしょう。
 ところで、商売は、すべてひろめが肝腎ですからな、つまり宣伝てやつを大袈裟《おおげさ》にやらないと、今時の商売は成り立ちませんな。
 そこで、捨値で買い受けた紙屑を、これは大納言様の直筆《じきひつ》で候の、このほうは大御所様で候の、これはまた少し御安値《おやすね》ではございますが、当時大阪第一の学者――といったように、広告、ひろめ、つまり宣伝てやつでおどかして、ウンと高く売りやしょう。
 紙屑を紙屑として売った日には、それこそ二束三文にも足りませんが、これを大納言だの、大御所様の御直筆だのと言って売り立てれば、大金になりやしょう。
 それを土台に、次から次へと大儲けを致そうと存じますが、いかがなもので……
 こういうたわごとを、がんりき[#「がんりき」に傍点]が黙って聴いていてやると、この紙屑屋、なかなか抜け目のない奴だと見直さないわけにはゆきません。
 土地では渾名《あだな》をのろま[#「のろま」に傍点]の清次、のろま[#「のろま」に傍点]の清次と言い、当人もそれで納まっているらしいが、どうしてどうして、のろま[#「のろま」に傍点]どころではない、ああして深夜、焼跡せせりをやろうという冒険心から見ても、こいつ、上べはのろまに見せて、儲《もう》けることにかけては油断もすきも無い奴だ。
 こんなのに、京大阪へ出て紙屑を売り崩されては、紙屑の相場が狂うに違いない――なんぞと、がんりき[#「がんりき」に傍点]が考えました。
 だが、なんにしても、今まで単純なるのろま[#「のろま」に傍点]の紙屑買いだとばかりタカをくくっていた奴が、ひとり喋《しゃべ》らせて置くと、講談師以上の雄弁家であることに、がんりき[#「がんりき」に傍点]もほとほと面負けがしないではありません。
 この紙屑買い、のろま[#「のろま」に傍点]の清次の哲学は、何でも仕事をしようとすれば、一も二もおひろめである、広告である、宣伝である。いくらいい物であっても、吹聴しなければ人が知らない、人が知らなければ商売にならない、それは本当にエライ人は黙っていても名を隠すことはできない
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