しかし、それとても、無学文盲なるこの辺の児童走卒にこそ、道庵先生の為すところのすべてが異様にも異常にも感ぜられるのだが、実際はお得意の喜多流(?)によって、謡につれて徐《おもむ》ろに、仕舞と称する高尚なる身体の旋律運動を試みているだけのものなのです。
 この先生が、馬鹿噺子《ばかばやし》にかけては古今きっての自称大家であることは、知るものは誰も知っているところだが、それよりも一段と高尚なるお能と仕舞とに就いても、これほどの造詣があるということを買ってくれる人のいないのが浅ましいことではないか。
 しかし、御当人は、買ってくれる人があろうがあるまいが、御当人の自己感激は、こうしていよいよ深み行くばかりで、もはや眼中に清洲の城址も無く、あたり近所の児童走卒も無く、古英雄信長もなく、今川義元もなく、ただ人生五十年の夢幻と、他生化転の宇宙実在とがあるばかり。自己感激はついに悠然として自己陶酔にまで進み入りました。
 しかしながら、いつもの型の通りに、この放恣浩蕩《ほうしこうとう》なる自己陶酔から、わが道庵先生の身辺と心境とを微塵に打砕くものの出現は、運命と言おうか、定業《じょうごう》と言おうか
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