「兄い、もういいかげんでいいやな、そんなにめかしたって誰もかまっちゃくれねえんだ、それよりか、おいらを少しの間でもいいから野放しにしてくんな、あんなに広い原っぱがあるじゃねえか、あれ見な、あの森には真紅《まっか》な柿の実がなっているよ、栗も笑《え》んでらあな、ちっとばかり放して遊ばせてくんなよ」
 こういうような我儘《わがまま》で、米友の親切を振りもぎりたがって暴れているのみであります。
 けれども、米友は、親としても、師としても、左様な駄々っ児ぶりは許すべき限りでないと、あがく熊を抑えつけては、ごしごしと五体を洗濯してやっています。

         六

 かくして宇治山田の米友は、熊を洗うことに打ちこんで総てを忘れてはいるが、実はそれと相距《あいさ》ること遠からざるところに、熊よりも一層忘れてはならない相手のあるのを忘れていました。
 枇杷島橋《びわじまばし》の上で、ファッショイ連を相手に、さしも武勇をふるった道庵先生が、ここは尾州清洲の古城址のあたりに来ると、打って変って全く別人のように、そこらあたりをさまようて、古《いにし》えを懐い、今を考えて、徘徊顧望、去りやらぬ風情に、
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