かしているわけではないのです。愛想をつかしていないのみならず、この熊めがふしだらであればあるほど、そこに幾分|憐憫《れんびん》の情を加えて、
「なあに、こいつだってなんしろまだ子供のことだから、丹精して、うまく仕込んで行きさえすりゃあ、立派なムクのあと嗣《つ》ぎにならねえとも限らねえわさ、今、朝顔を作ればといって、丹精一つのものだあな」
と呟《つぶや》いています。今ここで米友が朝顔を引合いに出したのはどういう縁故かよくわかりませんが、どこまでも被教育者そのものに責任を置かず、あらゆるものに向って、教育だの、陶冶《とうや》だのということの可能性を信じているのであります。従って、しつけの悪いのは、躾《しつ》けられる方の咎《とが》ではなくて、躾ける方の力の如何《いかん》にあるということを信じているらしいから、そこでさしも短気な米友が、頭の上から尻の世話まで焼いて、その親切がてんで受けつけられないに拘らず、未《いま》だ曾《かつ》てこの動物に向って絶望を投げつけたことのないのでわかります。
 かかる親切と信念の下に、米友ほどの豪傑に三助の役を勤めさせながら、それを恩にも威にも着ないこの動物は、

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