としても頼まれた新お代官というものが、ああいう羽目になってみれば、代官屋敷うちに居すわりにくいものがある。その両者の雲行がどちらから誘うとも、求めるともなしに、兵馬はお雪ちゃんのいるところへ暫く身を寄せていることにし、お雪ちゃんも否応なくそれを迎えてしまったものです。
 二人がこうしているのも、偶然、旅路の一つ宿へ泊り合わせたようなものだから、決して長い間ではないということを二人は心得ながら、暫《しば》しの生活を同じうしました。
 代官殺しと、お蘭誘拐の一切の検分をして、自分相応の観察があるらしく、兵馬は朝早く出て行って、帰りは不定であります。
 飛騨、信濃の高山が鳴り出したのは、その前後のことであります。
 今日も兵馬は、何か心当りあって早朝に出て行きました。あとに残ったお雪ちゃんは、イヤなおばさんの着物を縫い直すために針を運びながら、「死」ということを考えさせられておりました。
 ああ、わたしたちの行く道は、「死」というものよりほかは何物もないのではないかと。
 お母さんも死んだ、姉さんも死んだ、誰も彼もが死んで行く、あたりまえに死ねない人は殺されてしまう。
 どちらにしても、人間には死というものが待っている。若い身空のお雪ちゃん、無邪気な生の希望に満ちみちていたお雪ちゃんが、今日は死ということの予想に、かえって幾分の慰めを感じているのです。
 この世の中は、そんなに長く生きているところではない、人を離れてよく生きようとか、山へ遁《のが》れて楽しく生きようとか、憧れていた自分の思いというものは一切空想で、行けば行くほど重し[#「重し」に傍点]が加わってくるのが、結局この世の習いではないか、それで、早くこの世を去るということが、かえって人間のいちばん幸いなことではないか――
 お雪ちゃんは、それを空想ではなく、現実眼の前に眺めました。
 ほんとにそうでした。よく生きようの、好きに暮そうのと思えばこそ、一層の重荷が負わされるのでした。死んでしまいさえすればこんな重い悩みが、すっかり取れてしまう――自分の苦も、死ぬことによって一切解放されるから、人もみな同じこと、よく活《い》かすよりは、よく死なせることが本当の親切ものではないかしら。
 お雪ちゃんは、このことを厳粛に考えながら針を運んでおりましたが、やがて自分の針を進めている縫物の品が、例のイヤなおばさんの遺物《かたみ》であることを見ると、
「おばさん――あなたはまだ本当に死にきれていないのではないのですか」
と、着物に向って呼びかけずにはおられませんでした。
 それと同時に、お雪ちゃんは、この着物がどうしてこうまで自分の手を離れないでいるのかと、それとこれとをじっと見くらべておりました。

         二十二

 そうして、もう日も入りかけて、兵馬も帰って来なければならない時刻になっても、お雪ちゃんは頭をあげませんでした。その時、不意に縁側に人影があって、
「お雪ちゃん」
「まあ、弁信さん!」
 縫物も、針も、物差も、香箱もけし飛んでしまいました。
「お雪ちゃん、わたくしは、そうしてはおられないのです、これからまた直ぐに出かけなければなりません」
 してみると、この僧はお雪ちゃんばかりを当てにして……来たのではないらしい。
「え!」
「どうぞ、おかまい下さいますな、そうしてはおられません」
「どうしたのですか、弁信さん、そうしてはおられないとおっしゃるのは」
「この足で、また出かけなければなりません」
「どこへですか」
「どうも、なんとなく、わたくしの気がせわしいのです」
「だって、弁信さん、わたしじゃありませんか……あなたの落着きなさるところと、わたしの待っているところとが、ここのほかにあるのですか」
「あります」
「おや――では、弁信さん、あなたはわたしを訪ねておいでになったのではないのですか」
「もちろん、あなたに引かされて、ここまで参りましたけれども、このままでは気がせいて、落着く気になれませんのです」
「まあ……」
 お雪ちゃんは全く呆《あき》れてしまいました。夢のように待ち焦《こが》れていた弁信さんその人が、現にここに来ているではないか。それだのにその人は、わたしを物の数とも思っていてくれないというのは、何という異った世界になったのでしょう。
「では、お雪ちゃん、わたくしはこれで失礼して、これから急いで、ともかくも行って見て参ります」
「どこへですか、弁信さん」
「どこへというのは、お雪ちゃん、わたくしの方であなたにお尋ねすべきところで、わたくしの方から答えるのは、逆問答になるのでございます」
「弁信さん、あなたの言うことがわかりません、以前の弁信さんなら、わかり過ぎるほどにわかっているくせに、ほんとうにあなたは僅かの間に別の人になっておしまいのようでござい
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