ますね」
「いいえ、別の人になったわけではございません、お雪ちゃんが昔のお雪ちゃんなら、弁信もまた昔の弁信でございます、もしまたお雪ちゃんが、昔のお雪ちゃんでないならば、自然、この弁信も昔の弁信ではないことになります、変ったとすれば、それはどちらでございましょう」
「わたしは変りません」
 お雪ちゃんは意気込んで言いました。
 そうして、なお附け加えて言うことには、
「弁信さんは眼が見えないから、変ったとお思いになるかも知れませんが、わたしはこの通り、少しも変りません」
「そうですか、でも、わたくしにはどうしても昔のお雪ちゃんを懐かしがるように、懐かしがる気にはなれません」
「どうしてですか、弁信さん」
「どうしてだか知りませんが――わたくしのこの心が落着きません、わたくしの尋ねるお雪ちゃんという人の声は、ここでしているのには相違ないが、魂に触れることができません、お雪ちゃんの魂は……」
「弁信さん、久しぶりにお逢いしたのに、のっけからそんな理窟をおっしゃるものじゃありません。わたくしのほかにわたくしは無いのですよ、もし、あなたが、わたくしの声をお聞きになったのなら、それが本当のわたくしじゃありませんか。神様のように鋭い勘をお持ちなさるくせに、弁信さんは」
「そうではありません、わたくしは現在ここで声を聞くお雪ちゃんのほかに、もう一人のお雪ちゃんがあって、それが行方定めぬ旅に出ているとしか思えてなりません。しかもその行方定めぬ旅というのが、火の坑《あな》へ転げ込んで行く、お雪ちゃんの赤ん坊そのままです――あなたは自分の赤ちゃんが、地獄の火の坑へ這入《はい》って行くのをそのままに見ておられますか。でも世間には、自分の可愛ゆい片身《かたみ》を、罪の塊りだなんて闇から闇に送る親もないではありませんが……」
「ほんとにいやな弁信さん、昔の弁信さんはさっし入りがあって、親切で、有り余るほどの同情をすべてに持って下さったのに、今、久しぶりでお目にかかった最初に、まあ、なんといういやなことばかりおっしゃるのですか」
「いやなことを申し上げるつもりで言っているのではありません、わたくしの尋ねるお雪ちゃんの片身が――片身というのもおかしいようですが、やっぱり、魂と申しましょうか、その魂がここにおりませんのです」
「ほんとに困ってしまいます」
 ああ言えばこう言う弁信の着早々の理窟に、お雪ちゃんは何と挨拶していいか、悲しい面《かお》をして立ち迷うよりほかになくなっているのを、弁信は、そっけないもののように、
「では、わたくしは、これからそのお雪ちゃんのあるべくして、あるべからざるもののために出かけてまいります」
と言って、腰を一つかけるでもない弁信は、さっさと歩き出してしまいました。
「まあ、待って下さい、弁信さん」
 お雪ちゃんは、たまり兼ねて跣足《はだし》で飛び出したところへ、出逢頭に宇津木兵馬が帰って来ました。
 宇津木兵馬は、そのあわただしい光景を見て非常に驚きましたけれども、追いかけるお雪ちゃんよりも、追いかけられる当人が、あまりに痛々しい、弱々しい、見すぼらしい、おまけに盲目《めくら》としか見えない小坊主でしたから、それを遮《さえぎ》りとどめようとする気になれませんでした。
 いったん跣足《はだし》で飛び下りたお雪ちゃん、それでも草履《ぞうり》を突っかけたまま、坂路を下りて行く弁信のあとを、息せき切って追いかけました。追いかけると言ったところで、相手が、七兵衛でもがんりき[#「がんりき」に傍点]でもありませんから、お雪ちゃんにも雑作なく追いつくことができました。
 追いついてさえしまえば、ここでお雪ちゃんが、弁信を手放してしまうはずはないにきまっております。

         二十三

 それから暫く経つと、宮川の岸の人通りの淋しい土手の上を、極めて物静かに肩を並べて歩いているお雪ちゃんと弁信とを見ることができました。
「よくわかりました、弁信さんのおっしゃることが、すっかり呑込めてしまいましたから御安心ください……わたしも、こうして、あなたを追いかけて来たのは、この辺でゆっくりとわたしからお話をしたいことがあったからなのです、あの寺ではくわしいお話のできない事情がありましたものですから」
「左様でございましたか」
「弁信さん、ほんとうにわたしは、物語にも書けないほど奇妙な縁に引かされて、きわどいところに身を置かされており、どちらにも同情を持たなければならないのに、そのどちらもが敵同士《かたきどうし》とは、因果なことではありませんか」
「そうでございますね」
「昨日までは、わたしはあの人のために、身を捧げて介抱をしておりましたが、今日はそれを敵と覘《ねら》う人の情けを受けて、知らず識《し》らず生活を共にしてしまっているのです、そうし
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