どうあろうとも、この儀を思い止まることは、三成としては決して罷《まか》りならざるの儀でござる。貴殿御同意なきに於ては是非に及ばぬ儀でござる故に、急ぎ関東へ参陣あらせられるがよろしい」
 三成は存外、失望することなく、右の如く吉隆に応答した。
 それを聞き深めていた吉隆は、沈痛な返事をもってこれに答えた、
「意見の相違、是非に及ばぬことだ、然《しか》らば貴殿は貴殿の計画に任じ、思うように計り給え、拙者は拙者として、このまま会津征伐に馳《は》せ加わるのみじゃ」
「全く以て、是非に及ばぬこと」
 ここで舞台が暗くなると共に、幕が落ちた。
 お銀様は関ヶ原軍記を前にして、自分が見ようとする芝居の筋書を、こんなふうに胸に描いているのでありました。

         二十

 やがて幕が下りたのではなく、やはり暗転の形で次の舞台が現われたのであります。
 それは前の大谷刑部少輔吉隆が手勢を引きつれて出て来たには相違ないが、この時の装いは全く違っている。練《ねり》の二ツ小袖の上に、白絹に墨絵で蝶をかいた鎧直垂《よろいひたたれ》は着ているけれども、甲冑《かっちゅう》はつけていない、薄青い絹で例の法体の頭から面をつつんでいる。そうして、四方取放しの竹轎《たけかご》を四人の者に舁《かつ》がせて、悠然としてそれに打乗っている。前の場の石田との会見から垂井へ戻るにしては、胆吹山《いぶきやま》の方角が違っている。物のすべての面目が変っていることを、お銀様は奇なりとしました。
 かくて大谷の一行が街道の並木の中を上に向って行くと、ハタと行会ったところの一隊の軍勢がありました。
 五七の桐の紋の旗じるし。
 さんざめかした、きらびやかな一軍の中の総大将と見ゆる錦の鎧直垂――まだ年少血気の一武将であった。
「金吾中納言殿」
 大谷刑部少輔の左右の者が言った。大谷はうなずいた――やがてこの両隊は行きあいばったりとなる。大谷吉隆はそれを知らざるものの如く眼をつぶって行き過ぎてしまった。
 これは実に違礼であった。秀秋は高台院の猶子《ゆうし》で、太閤の一族、福島正則ほどの大名でもこれと同席さえすることのできなかった家柄である。刑部は何故に礼を忘れた。それは顔面が崩れて、もう物を見る明を失うていたのか、そうでなければ深き物思いのために、つい礼を失したものであろう。
 そうしてやり過した並木道。
 刑部少輔の手の者が山蔭に形を没してしまった後、金吾中納言は、畦道《あぜみち》に馬を休ませながら、家老にたずねた、
「あれは大谷刑部少輔ではないか」
「御意にござりまする」
「無礼千万な奴、会津征伐に加わるために東下すると聞いたが、どこへ行くのだ」
「不審に候」
 家老の松野主馬が答えると、他の一人の家老の稲葉正成が言う、
「大谷刑部も存外、目先の見えぬ愚将じゃわい」
「愚将とは?」
「あれは志を翻して、石田三成を助けに行くのでござる」
「治部少輔へ加勢にか……」
「螳螂《かまきり》の軍に加わるきりぎりすのようなものでござる」
 一軍の間に嘲笑が起ろうとする時に、家老の松野主馬がそれを遮《さえぎ》った。
「大谷ほどの者がなんで成敗の道を知らぬはずがござろう、あれは石田を助けに行くのではない、三成に首を与えに行くのだ」
「首を与えに」
「あの汚ない首を……」
 一軍の間に嘲笑の色が動くのを、松野主馬がまた抑えた。
「事の成るを知りつつ事を共にするは尋常のこと、わが不利を見て相手に節を売るは売女の振舞――成敗を眼中に置かず、意気を方寸に包んで、甘んじて弱きに味方する英雄の心情、それは英雄のみが知るものに相違ない、偉なる哉、刑部少輔――」
 嘲笑の色が、この悲壮なる讃美の声で圧倒されてしまった。
 小早川金吾中納言秀秋の血気の上に、愴然《そうぜん》たる雲がかかる。
 家老松野主馬は、それに附け加えて、全軍に諷するところあるが如く、主人に諫《いさ》むるものあるが如く――またいささか自ら絶望の気味あるかの如く、次のように言う、
「彼は、上杉征伐に従うべく、居城越前の敦賀を出て、この美濃の国の垂井の宿まで来た時分に、石田三成から使者を受けたのだ。年来のよしみで、石田に加勢を頼まれたのだ。彼はこれを意外とした。彼ほどの聡明な武人が、敵を知り、我を知らぬという法はござらぬ、今の世、徳川内府を向うに廻して歯の立つ者のござらぬという道理を噛んで含めるように三成に説いて聞かせたものだ。三成も、大谷が説くくらいのことは知っている。知ってはいるが、今、思い上っている――意見の相違。ついに物別れになって、かれ大谷は垂井の陣へ引返したのだが――彼は成敗の理数を知ると共に、朋友の義を知っていた、そうして垂井へ帰った後に、三たび使者をやって三成に反省を促したものだ。その効無きを知って、ついに一身を抛《なげう
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