としばし、これも武装をした一人の使者が眼前に現われました。
「石田治部少輔の家来、柏原彦右衛門にござりまする」
 使者の者がこう言って頭を下げる。刑部少輔吉隆は頷《うなず》いて、
「うむ、彦右か、大儀であった、さいぜん治部殿から御手紙であったが、重ねて、そなたを使者としてつかわされた次第は?」
「主人よりの申附けにより、刑部少輔殿を、枉《ま》げて佐和山の城へ御案内申せとのことにござりまする」
「それは心得ぬ、我等このたびの出陣は、内府公の加勢をして会津発向のほかに用向はこれ無きはず、治部少輔がこの際、我等を途中より招かるるは、さだめて何ぞ別段の思惑もあることであろう、そちは使者を命ぜられたほどの者である故に、その仔細を存じておらるるはず、申し聞かせられい」
「主人事、私共へはなんらの申し聞けはござりませぬが、内府公の御手前の儀は、我等主人に於て何分にもおとりなし仕《つかまつ》るべきにより、枉げて佐和山の城へお立寄りを願いたい、我等主人胸中には、刑部少輔殿に格別の御相談を申し上げたき儀もあるやに察し申しておりまする」
 刑部少輔吉隆は、それを聞いて、暫く打吟じて思案に耽《ふけ》っていたが、
「よろしい、然《しか》る儀ならば、これより佐和山の城へ同道いたそう」
と言い切って、面《かお》を上げた大谷刑部少輔の崩れたその顔面。深い覚悟の程も、思い切った表情の程も、その崩れ爛《ただ》れた面には、更に現われてこないことが悲惨である。それをお銀様は悲惨として見ないで、かえって自分の顔として見ているようです。
 石田治部少輔三成のために――単なる一友人であるところの石田のために、せっかく越前の敦賀から踏み出して来て、江戸の家康の手にはせ加わって、会津の上杉征伐に向うつもりとばかり期待して軍勢を引連れて出て来た身が、ここでガラリと向きをかえて、江州なる佐和山の城――つまり石田の居城への招請を甘んじて引受けたこの名将の心理が、少しもその顔面の表情に現われてこないことを、お銀様だけが痛快に感じ、その崩れかかった顔面の中に大谷吉隆を見ないで、かえって自分の面体を見て、お銀様の心がよろこび躍りました。
 舞台がそこで暗転の形となる。

         十九

 ここはいわゆる佐和山の城の大広間であろう。大谷刑部は以前と同じ姿形で一方の敷皮の上に胡坐《あぐら》している。
 それと相対して、烏帽子《えぼし》大紋の容貌優秀なる大名が一人、同じように敷皮の上に座を構えている。これが当城の城主――石田治部少輔三成に相違ない。
 かくて、両者の対話と問答がはじまる。
「実はこのたびの会津反乱というは仮りのこと、実は我等、多年思い立ち候事なり」
 多年の企画がここに火蓋を切って、いよいよ徳川家康を向うに廻して天下分け目の大謀がその緒についたことを、三成が逐一《ちくいち》、大谷に向って打明ける。会津の上杉にすすめて兵を挙げさせ、家康がその征伐のために伏見を立って東下する――という表面の事態、裏には石田と直江山城との策動が熟し切っていて、家康の東下を待って、そのあとを覘《ねら》おうとの方寸を三成が吉隆に打明けたのであった。
 それをいちいち聞いていた大谷刑部は、例の崩れかかった面を燈火に向けて言った、
「これは以ての外の不了見でござる」
「以ての外の不了見とは?」
 心さわぐ三成を、吉隆は制して言った、
「貴殿という人は、江戸の内府を並大抵の人と見ておらるるのか。この点は我等よりはいっそう認識のことでござろうに、今更あの人を向うに廻そうなどとは、途方もない無謀である、拙者には貴殿の胸中がわからない」
「家康とても鬼神ではござるまい」
「なかなか以て。故《もと》の太閤ですらも我々へ常々申し聞けらるるには、家康の儀は知勇共にそなわりたる人であるによって、我等のよき相談相手と思って馳走いたすのじゃ、お前たちの合点《がてん》のいくことではないと、事毎に言われたものだ。太閤ですら、それほどに遠慮を置いた人物を、貴殿がいまさら相手に取って弓矢に及ぶとは沙汰の限りのことでござる、左様な無益の儀を思い止まって、我等と一緒に会津表へ下向なさるがよろしい」
 三成はそれに答えて言った、
「それはそうでもあろう、貴殿の諫言《かんげん》に従って思いとどまるのが道理かも知れないが、今はもう退引《のっぴき》のならぬ事態になっている。というのは、我等上杉景勝の家老直江山城守と堅く申し合わせ、当春より直江が主人景勝をすすめて旗を揚げさせ、そこで、家康父子をはじめ徳川一味の諸軍がみな景勝退治とあって会津発向のように仕組んで置いた仕事が、予定通り今日の段取りとなって現われたものである。この際拙者が思いとどまって、景勝一人を見殺しにできようか、できまいか、武道の本意によりて推察ありたし。合戦の勝負のことは
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