と振返った与八が驚きました。自分の後ろに立っているのは、日頃見知りごしのこの家の主人、伊太夫その人でしたから、
「若衆《わかいしゅ》、毎日御苦労だね」
伊太夫が一|人足《にんそく》に向って、こんな会釈《えしゃく》を賜わるほどのことは例外でありました。
「はい、はい、おかげさまで毎日、有難く働かせてもらっております」
「お前はほんとうによく働く」
杖をとめたなりで、伊太夫がちょっとその場を動こうとせぬのも、思いがけないことと言わなければなりません。
常ならば、番頭や書き役が附いて見廻りをなさるはずなのに、今は誰もついていないのみか、わざわざひとり、この藪をくぐって来られた態《てい》にも見えるし、与八に向って、特別に念入りの挨拶をすると共に、杖をとめているのは、何かまた特別に与八に話したいことがあるために、事にかこつけて、人目を避けてこれまで来たもののように見られないでもありません。
そこで与八も、大口をあいて無遠慮に握飯《おむすび》を頬張ることもなり兼ねていると、伊太夫が、
「若衆《わかいしゅ》さん、お前さんはどこから来なすった」
今度はなお特別ていねいに、さん[#「さん」に傍点]附けであります。与八は答えました、
「はい、はい、恵林寺の和尚様からのお引合せで、御当家様へ御厄介になることになりましたのでございます」
「おお、そうそう、忘れていた、慢心和尚からの御紹介のはお前さんだったか」
「はい、はい」
「生れはどこだね」
「武州の沢井というところでございます」
「そうかね――当分、こちらにいなさるか」
「こちら様の御用が済みましたらば、これからまた西の方へ旅をしてみようと思っているのでございます」
「西の方へ――西はどこへ」
「どこといって当てはございませんが……」
「当てが無い――」
伊太夫は、ちょっと面《かお》を曇らせて、与八と郁太郎とを等分に見おろしました。
「はい」
「当てがなければ、お前さん、当分わしのところにいてはどうだ」
「そりゃ御親切さまに有難うございますが、御用が済んだ上に、長く御厄介になっちゃあいられましねえ」
「用なんぞはいくらでもあるよ」
「はい」
「仕事なんぞはここにいくらでもある、この普請が終ったからといって、そうさっぱりと出て行かなくってならんというはずのものではない」
「そうおっしゃっていただくのはいよいよ有難うございますが、実は、わしたちも心願がございまして、諸国を巡ってみてえとこう思って出て参りました身の上でございます」
「そりゃ、諸国を巡ることは悪いとは言わないが、どうだ、もう少し、普請が終るとか、終らないとかいうような時をきめる必要はない、いやになる時節まで、わしがところにいてもらえないかな」
「はい」
与八は、伊太夫|直々《じきじき》のこの好意に対して、何と返事をしていいかわからない。人を使うことも、人を信ずることもかなり厳密なこの大家の主人が、直々に、初対面といってよい与八に対して、こんな言葉を下し置かれるというのは、かなり異例であるということを与八はよく呑込んではいないで、どういうわけかこの主人が、自分に対して特別、好意を持っていてくれるということはよく分るのです。与八の明答に苦しむのを見て取ったかのように、伊太夫が言葉をつけ加えました、
「わしの家も、今こそこの通り混雑しているが、これが済んでしまった日には、ひっそりしてしまうのだ、雇人もかなりいるにはいるがね、急に、家中がにぎやかになるというわけにはいかないのだ」
与八は、なんだかこの言葉のうちに、痛々しいものがあるように思われてなりませんでした。
ああ、そうそう、そう言えば、この間の火事で、ここの奥様と、あととりの坊ちゃまが、焼け死んでしまわれたそうな。それに、一粒種のお嬢様というのが、一筋縄ではいかない方で、今、遠くの方へ旅をしておいでなさるとか。してみると、ここの御主人が寂《さび》しいとおっしゃるお心持も、ほぼお察し申すことができるようだ。
三
それから間もないこと、藤原家の番頭から別に話があって、与八はこの家の別扱いの雇人となりました。
臨時の人足として使われた男が、穀物庫の傍らの一室を給されて、この家の准家族のような待遇を与えられる身となりました。
与八としては、強《し》いてこれを辞退もしなかったが、そうかといって、永くこの家の奉公人となりきるつもりはありませんでした。
だが、こうなっていることは、自分はとにかく、郁太郎の教育のためによいことだと思わずにはおられません。
ともかく、今までの相部屋《あいべや》と違い、自分としての一家一室が与えられることになると、与八は沢井を離れてから、はじめて居心地が落着いたのです。
郁太郎、どうしたものかこの子の発育が、肉体、知能と
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