もに世間並みの子供より鈍いことは、与八も知らないではありませんが、それでも、もう四歳《よっつ》になった以上は、単に育てるだけではいけないということに気がつきました。
 哺乳の世話だけは、もう卒業したようなものだから、それを教育の方に振向けなければならないと与八が感じて、夜なべに米を搗《つ》く傍ら、郁太郎を坐らせて、いろは[#「いろは」に傍点]を習わせることからはじめたのはこの時のことです。
 与八は焼筆をこしらえて、郁太郎のために板切れへ「いろは」を書かせることを教えながら、自分は地殻《ちがら》を踏んで米を搗いている。燈明皿の燈心は、教師である与八と、教え子である郁太郎との間を照して余りある光を与えておりました。
 今晩は雨が降り出している。与八と郁太郎の師弟が、例によってこの雨夜を教育に耽《ふけ》りはじめているところへ、フト外から訪れる客がありました。
「与八」
「はい」
 与八は直ちに、訪れて来た客人が、藤原家の当主の伊太夫であるということを知りました。
 伊太夫が蛇《じゃ》の目の傘を土間と戸の桟との間に立てかけ、合羽を脱ぎかけているのは、わざわざここを訪れるために雨具を用意して来たのか、或いは他を訪れたついでにここへ立寄ったのか。それにしてはともがついていないのみか、自身、包みをぶらさげて来ている。
「これははあ、旦那様」
 与八は恐縮して、地殻つきから下りて来ました。郁太郎は、この来客にちょっと目をくれただけで、しきりに板の上へ焼筆をのたくらせている。
「与八、どうだ、お前ひとつ、お茶をいれてくれないか」
 合羽を脱ぎ終った伊太夫は、自身携えて来た包みを取りおろして炉辺に置きながら、自分はもうその炉辺に坐りこんでしまいました。
「旦那様、まあ、お敷きなさいまし」
と言って、与八は有合せのゴザを取ってすすめます。
「今夜は雨も降るし、静かな晩だから、お前と一話ししようと思ってやって来たよ」
 してみると伊太夫は、他家《よそ》への帰りにここへ立寄ったものではなく、雨の夜を、わざわざ合羽傘《かっぱからかさ》で、ここへ話しに来ることを目的として来たものに相違ありません。
 何してもそれは与八として光栄でもあり、恐縮でもないはずはありません。
 米搗《こめつ》きはそのままにして、与八は自在の鉄瓶を下へ卸し、火を焚きつけにかかりました。
 伊太夫は、抱えて来た包みを解いて、また別の一つの箱を取り出しました。その箱には煎茶《せんちゃ》の道具が簡単に揃えてあるし、お茶菓子も相当に用意して来てあるようです。
 やがて湯が沸くと、主人伊太夫が手ずから茶を立てました。
 茶を立てたといったところで、なにも与八のためにお手前を見せに来たわけではないから、持参の茶器へ、普通に民家でする通りお茶ッ葉とお湯を入れて、飲みもし、飲ませもしようという寸法だけのものです。
「さあ、お茶をおあがり、お菓子を一つお抓《つま》み。その子供さんにもおあげ」
 ちょうど、この場合、主客が顛倒したように、伊太夫が二人をもてなすような席になりました。
「有難うございます、そりゃ、勿体《もってえ》ねえことでございます、郁坊や……ではこのお菓子を頂戴しな」
 郁太郎に菓子をすすめようとしたが、この子はそれを食べようとしないで、暫くじっとながめている。
 与八は与えられたお茶を推し戴いて飲み、伊太夫も旨《うま》そうにそれを味わいました。
 こうして二人の話に、しんみりと雨夜の会話が進むことの機会が熟して行く。
「与八、今夜は、心ゆくばかり、お前の身の上話が聞きたいのだ」

         四

 この晩、伊太夫が、与八と打解けての会話の結果は、与八には特に附け加えるものはなかったが、伊太夫にとっては、それは自分とは全く方法を別にし、主義を異にした新しい一つの生き方をいきている人のあるということを、つくづくと知ることができました。
 すなわち、自分というものは、有り余る財産というものに生きているのだが、世間には、それと反して、全く無所有の生活にいきて行く人と、またいき得るものだという実際上の知識でありました。
 無所有には怖るるところは無いという論理は、伊太夫にも相当よくのみ込めます。無所有なるが故に、求めらるるところがなく、また無所有を生命とすれば、求むるところなくして生きて行けるという事実は承認できます。
 だが、それだけのものです。それは一つの奇妙なる実例として、伊太夫にはながめられるだけで、自分がその生活に飛び込もうとか、そうすることが本当の生き方であったと、解悟したわけでもなんでもないのです。
 ですけれども、与八と話をすることが、伊太夫にとっては無上の興味でありました。自分にとって、命令すべき相手はあるが、相談をすべき相手というものは、伊太夫にとっては今日まで無
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