かったのでした。心置きなく話そうとすれば、直ぐにその心置きないところに附け込もうとするもののみです。教えようとすれば、かえっていじけるもののみでした。
全く打解けて憚《はばか》りなく話のできる相手というものを、この年になって伊太夫は、はじめて与八に於て発見し得たと言ってもよいでしょう。そこで、一日増しに与八というものが、伊太夫の生活に無くてならないものになりつつゆくのを、伊太夫自身も如何《いかん》ともし難いらしいが、与八に於ては、特にそういった意味で、伊太夫から選ばれているともなんとも思ってはいません。
伊太夫はついに、この男を放すまいと決心してしまいました。
永久にこのデカ物を藤原の家に置きたいものだ、だが、当人の志というものは本来そこにあるのではないことをよく知っている。これから西へ向いて行って諸国の霊場巡りをするのだという希望のほどをよく知っている。何という名目と、誘惑で、この男を引きとめようか。伊太夫はこのごろ、こんなことまで苦心するようになりました。
与八の方では、そんな苦心や、好意だか慾望だか知らない伊太夫の心のうちには気がつきません――もうほどなく、この家をお暇乞いしようと心仕度をしています。
そのうちの、ある晩、伊太夫が与八を訪れて、ハッキリとこういうことを発言しました、
「与八さん、変なことを言うようだが、お前と、それから郁太郎さんと二人、わしの家の養子になって、永久にここの家にいてくれまいか」
「え」
与八も、これには多少驚かされましたが、伊太夫は真剣でした。
「お前さんの身の上も、郁太郎さんの生立ちもよくわかりました、そこで、わしはお前に頼みたいのだが、どうです、二人一緒にわしの家の養子になって、この家にとどまってはくれまいか」
「そりゃあ、どうも……」
と、さすがの与八も、即答のできないのは当然です。
伊太夫は、いよいよ真剣でつづけました、
「わしの家には、あととりがない、親類もあるにはあるが……これに譲ろうというのは一人もない。与八さん、お前は、お前としての心願もあることだろうが、どうだろう、お前さんにその心がなければ、この郁坊を、わしに養子としてくれるわけにはいくまいか?」
「そりゃ、どうも……」
与八は、やっぱり目をパチパチしている。
「さあ、それが、おたがいの幸福になるか、不幸になるかわからないけれど、これでも、わしは、この頃中、考えに考えぬいてこのことを言いに来たのだ、わしはお前のほかに頼もしい人を知らない、お前を後見として、この郁太郎さんという子に藤原家をそっくり嗣《つ》いでもらいたいものだ――わしが、これを言い出すからには、相当に深い決心をしている」
五
宇治山田の米友は、尾州清洲の山吹御殿の前の泉水堀の前へ車を据《す》えて、その堀の中でしきりに洗濯を試みているのであります。
その洗濯というのは余の物ではない、彼は、今、泉水堀の前に引据えた檻車《おりぐるま》の中から一頭の熊を引き出して、それの五体をしきりに洗ってやっているのであります。
この熊の来歴たるや事新しく説明するまでもない。とにかく、米友はこの熊を洗ってやることに、会心と、念力とを打込んでいる。
「もっと、おとなしくしてろ、そんなに動くもんじゃねえや」
米友が親切を尽すほどに、子熊がそれを受けていないことは相変らずで、食事から、尻の世話までも米友にさせて、今はこうして気の短い米友に、甘んじて三助の役目をさせながら、性《しょう》も感もないこの動物は、これを感謝せざるのみか、洗われることを嫌がって、米友の手を離れたがるのであります。
「ちぇッ――手前《てめえ》という奴は、てんからムクとは育ちが違っていやがらあ」
米友は思わずこの世話焼かせ者の、恩知らずの動物に、浩歎《こうたん》の叫びを発しました。
事実、米友がこの子熊を愛するのは、熊そのものを愛するのではない、熊によって彼は自分の無二の愛友であったムク犬のことをしのべばこそ、どんな艱難辛苦《かんなんしんく》を加えようとも、この動物と行程を共にしようとの気持になったのであります。
しかるに、形こそムク犬を髣髴《ほうふつ》するものがあれ、その心術に至っては、雪と墨と言おうか、月と泥と言おうか、ほとほと呆《あき》れ返るばかりであるのです。
全く同じ四肢《よつあし》動物ではありながら、ムク犬と、この子熊とは育ちが違う、育ちだけではない、氏《うじ》が違うと言って、先天的に平民平等観の軌道を歩ませられている米友さえが、氏と育ちとの実際教育をしみじみと味わわせられ、子熊の度すべからざるを知るごとに、ムクの雄大なるを回想せずにはおられない。といって、米友は、ムクの雄大なるを回想することによって、この熊の不検束に呆れ歎きこそすれ、まだこれに愛想をつ
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