を主張したことのないのを、伊太夫がようやく認めました。
同時に、このデカ物は、自分の子とも、他人の子ともつかない、一人の子供を親切に養っていることを認めずにはおられません。それはこの工事のうちに、乳呑児を背負ってエンヤラヤアの地搗《じつき》に来ているような女労働者も相当にないではないが、男の身で子供を連れて来ているのは、このデカ物に限っていることを認めずにはおられません。経済学を無視する行為を認める以前に、このデカ物と、そうして瘤附《こぶつき》との異常な形体が、伊太夫の眼をそばだてしめたものでしょう。
それ以来、そのつもりで見ていると、見ているほど光り出して来るのが、このデカ物の働きぶりです――この男は経済学を無視している、分配の法則から飛び離れている。他の何事よりも経済学を無視しているということが、伊太夫にとっては不思議であり、驚異であり、無謀であることを感じずにはおられないらしい。何となれば、伊太夫の頭は、ほとんど全部が経済学から出立しているのです。
自分の家のすべての者が、自分に対して反《そむ》き去っているということ、その反き去ってしまった結果として、惨憺《さんたん》たる家庭争議がついにこのたびの業火となって、家財、人命をも焼き亡ぼさずにはおかなくなった破局というものも、伊太夫の頭では、やっぱりもとはといえば経済学に根を持っているのだということを信ぜずにはおられません。
つまり、すべての禍《わざわい》の根元は、藤原家のこの財産にあるのだということは、何人よりも、深く伊太夫は観念しているのです。
前妻の子と後妻の子とに蟠《わだかま》りがあるのも、後妻とお銀様との間が火水のようになっているのも、本来、この藤原家の財産がさせる業なのだ、なんのかのというけれど、要するに人間は慾に出立している、慾が無ければ人間がないように、財産が無ければ藤原家はないのだ。家庭争議は忌《いま》わしいとは言いながら、先祖以来藤原家が、この国で並ぶものなき家柄に誇り得るのは、こうしてどんな災難があろうとも、災難は災難として、ひとたび自分が顎を動かしさえすれば、たちどころに幾千の人も集まり、幾倍の工事をも為し得るという力、その力に比例して、権勢名聞が周囲に及ぶというのも、一にこの財産ある故にこそである。
大まかに経済学とはいっても、伊太夫のは、佐藤信淵や、河村|瑞軒《ずいけん》あたりから得ている経済学ではなく、わが藤原家の祖先伝来の財産というものから割出している経済学なのですから、この私有財産あってこその経済学で、その私有財産を基礎としないことには、経済も、倫理も、道徳も、学問も、芸術も、総てが消失してしまうのです。そこで彼は藤原家の財産を損ぜぬ程度に於て、またいつか利息を含めて戻って来るという計算の上に於て、慈善のようなこともやり、贅沢《ぜいたく》のような金づかいもやりました。
自分の威勢といったところで、兵力を持っているわけではなく、官位を持っているわけでもない、家は古いには古いが、摂家清華というわけではない、人がつくもつかざるも、要するにこの財産の威力のさせる業なのだ。
伊太夫はそれがよくわかっているだけに、人を使うにも、人の慾を見ることに抜け目がないのです。少なく与えれば怨《うら》む、多く与えれば驕《おご》る、一時、威圧で抑えて、労銀以上の働きをさせても、能率や実際から見ると、それはいけない、安ければ安いようにどこかに仕事が抜いてある、やっぱり人を使うには少なく与えていかず、多く与え過ぎていかず、その辺が経済の上手と下手との分るるところだ――そういうような経済眼は発達しているから、少なくとも祖先以来の家産を減らさなければ、いやでも増殖させて行くことは測られないほどでありました。
この経済の蔭に、家庭のあの暗い影のあるのは望ましいことではないが、やむを得ないことだと腹にこらえてもいるのです。家庭の暗い影は、もとより望ましいことではないが、この暗い影のために藤原家というものを抛棄《ほうき》することができるか。それは藤原の宏大なる資産というものがなければ、一家親戚のこれに頼る心と、これを見る眼というものが消滅してしまうにきまっている。自然、暗い影はそこでサラリと解けるかもしれないが、藤原家というものが消滅して何の家庭争議だ。肉体を持つ人には病苦というものがある、病苦を除くために肉体を殺してしまえ、ばかな! そんな理窟や学問はどこにもない。
今日しも与八は、おひるの時分、いつものように大勢とは離れて、小高みになった藪蔭《やぶかげ》のところに竹樋《たけとい》を通した清水を掬《すく》いながら、握飯《おむすび》を郁太郎にも食べさせ、自分も食べていると、不意に後ろから人の足音があって、ガサガサッと藪の下萌《したもえ》が鳴る。
「あ! 旦那様」
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