やりと腰をかけている米友ではない。
「聞いてみれば、君がこの熊を手放せないのも尤《もっと》もと思われる節もないではないが――今後もこういう場合を予想すれば、長い旅路の足手纏《あしでまと》いが思いやられる。いっそ、預けて置いて出かけちゃどうだ」
「うん……」
米友は、そこで、少し考えました。事実、この熊を手放そうとまでは思っていなかったのだが、実際、足手纏いといえば足手纏いに相違ないのである。熊も大事だが、人は更に大事である。この熊があるがために、主と頼む先生に対しても忠義を励むことができず、自分の身体をさえ拘束されるようなことになってはたまらないことの理義を、米友がわきまえないほどに没常識ではない。
といって、あれまで苦しんで、人様にもお頼み申して手に入れたこの小動物に対して、単に厄介払いという意味で、見捨てたり、置き捨てたりすることは、人情が許さない。いや、米友特有の道義が許さない。
さきほどから頭の重かった一部分には、たしかに、その処分法についての悩みも手伝っていたのです。そこで、美少年からこういって水を向けられてみると、ついムラムラと、
「いい預り手がありさえすりゃなあ」
と、歎息のように答えてしまいました。そうすると、岡崎藩の美少年は呑込み顔に、
「そりゃ、あるとも」
「ある!」
米友はいささか頭を上げて眼を円くして、
「あるったって、香具師《やし》じゃいけねえぜ」
「そんな者じゃない」
「だって、お前、馬なら荷物を運ばせたりなんぞして、駄賃をとって、暮しのたそく[#「たそく」に傍点]にするということもあるが、熊はお前、稼ぎをしねえから、飼ったところで食いつぶしだけのもんだぜ。だからお前、やにっこい[#「やにっこい」に傍点]身上《しんじょう》じゃあ、熊あ一匹飼いきれねえよ」
「そりゃ、そうだ」
「それからお前、子供だといったからって、熊は熊だぜ、犬や猫たあ違うんだからな、厳重な檻を拵《こしら》えてやらなけりゃならねえ、それには家屋敷も広くなけりゃならねえんだ――」
「君の言う、そのすべての条件に叶った飼主――預り主があるのだ、わしに任せてくれないか、で、また必要の時は、いつでも君に返してあげるようにする」
「そう誂向《あつらえむ》きのところがあればだがなあ」
米友が、まだ半信半疑でいるところへ、岡崎藩の美少年は、次のように事実を証明して、米友の信用に訴えました。
それは、この清洲の城、あの背後に俗に山吹御殿という一廓があって、かなり広大な家屋敷を持っているが――こんどそこの当主が肥後の熊本へ旅立ちをする。都合によっては長くかの地で暮すようになるかも知れない。そこで相当の留守居をつけてこの屋敷を引払うことになった。その留守番に、否応いわさず、自分が引受けさせて、熊の養育を托して置いてやる。あそこならば邸内は広いし、熊一匹養いきれないほどの身上ではなし、留守居の人間も親切であり、動物好きだから、むしろ喜んで面倒を見るにきまっている。
それを聞くと、米友が深く頷《うなず》いてしまいました。
やがて米友が熊の檻の大八車を引き出すと、岡崎藩の美少年が、そのあと押しをして、えんやらやあと山吹御殿に引き込んで行くのを認めます。
十三
それからまたやや暫くの後、この屋敷から現われた二人の者の一人は、空身になった米友に相違ないが、もう一人の方は、これも確かに岡崎藩の美少年には相違ないが、これだけは風采《ふうさい》が全く変っている。
米友は依然として米友、車を曳かないだけの米友ですが、美少年は饅頭笠《まんじゅうがさ》に赤合羽といったような、素丁稚姿《すでっちすがた》にすっかり身を落している。
こうして二人は街道を西へ向って急いで行きます。
木曾路の脱線から、怠りがちであった里程表を、この辺から、名古屋を起点にはじめてみますと、
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名古屋より清洲へ一里半
[#ここで字下げ終わり]
そうして清洲から次の丁場を一里半、稲葉へ曲ろうとする六角堂まで、変装した美少年が先に立って急いでやって来ましたが、六角堂へ来ると堂の前で立ち止まりました。
これより先、そこに待合わせていたらしい一行がある。
この一行はかなり物々しい乗物二梃に、数名の従者と、それが槍一筋を押立てていることによって、庶民階級の旅人でないことがよくわかります。
ここへ追いついて、ホッと息をついた岡崎藩の美少年の物ごしを見て、米友は、ははあ、この少年はこの一行に合するために、わざわざ変装して来たのだということが充分に呑込めました。
待合わせていた一行もまた、美少年の来り合したことを会釈《えしゃく》して、しからばいざ一刻も早く、という段取りでした。
美少年は、額《ひたい》に滲《にじ》む汗を拭いながら、自分は休
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