もうともせず、先に立って、
「いや、お待遠さまでございました」
 その時、前の乗物の戸が細目に開いて、それに挨拶の合図のように見えたばっかりで、何とも言葉はありませんでしたが、その乗物の戸を細目に開いた瞬間に、米友は、その白い面《かお》を見ました。微笑を含んで会釈するらしい人の面をちらと見ました。そうして色の白い、髪の黒い、身分ありそうな女の人であることだけを、米友は認めてしまいました。
 前なる乗物の主がわざわざ駕籠の戸をあけての挨拶にかかわらず、美少年はそれをちょいと振返ったばかりで、すっと自分が先頭をきってしまい、一行のすべてがそれに従って進みました。
 この場合、米友としては、先頭をきってさいぜんの美少年と歩調を共にしたものか、それとも殿《しんがり》を承って、この見も知らぬ一行について行った方がいいかと迷いましたが、よしよし、やっぱり先へやって、やり過した方がいい。
 こうして、このかなり物々しい一行は六角堂を乗出して、真直ぐに北へ行けば一宮から岐阜へ出る街道を、左に取って、長束《ながづか》から稲葉伝いの大垣街道を打たせるのです。
 計らず殿《しんがり》を承った米友は、街道の左右を見て広い田場所だなあと思いました。見渡す限り田圃だ――おれも国を出てからずいぶん諸所方々を流浪したが、今までこんな広い田圃を見たことがないと思いました。
 米友は今、名も知れぬ一行の殿を承って、茫然として進み行くばかりです。
 これに従って行けば道庵先生の跡が確かまるというわけでもなく、お角さんその人はどの道をとったのかさえ明らかでないが、ともかく、あの美少年はなかなか目から鼻へ抜けている上に、お角さんとも充分に諒解のある間柄だということを信じているから、それに従って行きさえすれば悪いようにはなるまいという心だのみのみで、無心に足を運ばせて行くだけのものです。
 やがて清洲から一里半の丁場、稲葉の宿を素通りして、同じような広い左右の田圃道を行くことまた一里半。
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萩原――の宿で中食
萩原より起《おこし》まで一里
起より墨俣《すのまた》まで二里――
[#ここで字下げ終わり]
 墨俣より二里四町にして、ついに大垣の城下へ着いてしまいました。
 これを、かりに清洲からの発足としても約八里の道、女連れの旅としてはかなり急いだものと見なければならない。
 ともかくも一行は、こうして無事に大垣の城下に着き、木村という本陣に宿を据えました。
 米友も御多分によって、宿屋の中へまぎれ込み、一番最後に目立たないところで足をとめていると、
「友さん――」
「あっ!」
 顧みて見ると、そこに立っているのはお角さんでした。
「友さん、お前、御苦労さまだがね……」
 お角さんは存外他念なく、米友に対して物やさしい物の言いぶりでありました。
「御苦労さまだけれど、その足で、ちょっと頼まれてくれないかね」
「何だい」
 その足で頼まれてくれというのは、今し取りかけた草鞋《わらじ》を取るなという命令のようなものです。米友としては、それを肯《き》かないわけにはゆかないのです。いつもならば権柄《けんぺい》ずくで命令されても、このお角さんだけは米友にとって苦手《にがて》であって、どうともすることはできないのだが、今日はいやに生やさしく頼まれるだけ、一層いやに圧迫されるような嫌味が無いではない。
「お前、今晩ここで泊らないで、関ヶ原まで行ってくれないか」
「えっ」
 米友としても身心ともに相当に疲れている――ここへ着いたのをホッと一安心と心得ていないでもないところを、その足で……と来た。
「うん」
 これもまたいやとは言えないようになっていたが、いったい、その関ヶ原とはどこだ。

         十四

 お角さんは、最早ここに先着していたので、その先着は米友の一行に先立つこと、ほんのしばしの間――万事はかの岡崎藩の美少年としめし合わせてしたことという筋道は、米友にもよくわかります。当然、米友もあの一行に伴われてここへ落着くのだということも、お角さんは先刻心得て待っていたに相違ない。そうして、米友の到着を待ってこのことを言おうと構えていたこともたしかです。
 せっかく草鞋《わらじ》を取りかけた米友はいやとも言えない、この際、迷惑には迷惑であるが、事と次第によっては、頼まれたことを引受けられない米友ではない。ことに自分は、ここに泊るつもりで来たのでもなければ、泊らねばならぬ勤務を持っているわけでもない。
 そこで、いやとも言わず、応とも言わず、お角さんの頼みをなお念入りに聞こうとして草鞋を解く手を休めていると、お角さんは、いつもよりは角を立てないで、お気の毒だがねえと言って、米友に頼み込むわけというのはこうなのです。
 実はお連れ申して来た、お前の知ってのあの
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