一方から見れば、道庵先生自身が、雲助君のぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]を蒙るに該当する資格を備えていたということが、運の尽きであると見なければならぬ。
 お角は、それを聞いて、
「お話にならないよ」
と横を向きました。全くそれはお話にならないことです――江戸ッ子のチャキチャキ、下谷の長者町の道庵先生ともあろうものが、木曾川くんだりの雲助にぶったくら[#「ぶったくら」に傍点]れるなんて、お話にも絵にも描けたものじゃないに相違ないけれども、一方、これが御当人の道庵先生その人になってみると、一時はあの通り、「後生だから助けてくれ!」と絶叫はしてみたけれども、今となっては、別仕立ての早駕籠を命じたつもりで、いい気になって、早くも高鼾《たかいびき》で納まり込んでいるかも知れない。
 お角は米友に向って、
「そういうわけなんだから、ありそうなことだよ、あの先生のことだから、こちらが気を揉むほど、あちらはお感じがない、お前、そうやきもきしないで、わたしと一緒においで、わたしはちょっとこの先の山吹御殿というのへお伺いをして行くから、荷物があるなら後からでいいよ、先生の方は、先生の方で何とかなりまさあね」
 お角一行は米友にこう言い含めておいて、いわゆる山吹御殿の方へと急がせて行きました。
 すべての人が散じて、取残された宇治山田の米友――
 悄々《しおしお》として、熊の檻車のところまで戻って見れば、熊がキャッキャッと言って躍《おど》り上って米友を迎える。
「ガツガツするなよ」
と米友が言いました。
 熊がキャッキャッと言って米友を迎えるのは、米友が無事で戻って来てくれたことを、なつかしがるわけではないことを米友はよく知っている。
 この事件のために、食物をあてがう暇がなかった、それがための催促であり、不平であることを、米友はよく知っている。
「ガツガツするなよ」
 彼はこう言って、用意の袋の中から、柿の実だの、栗だのを取り出して与えると、遮二無二《しゃにむに》それに武者ぶりついて、眼中に感謝もなければ、応対に辞儀もない。
 むしゃむしゃと食事にありついている熊の子を米友はじっと眺めて、
「ムクはそうじゃなかったんだぜ」
と吐息をつきました。
 物心を覚えてから、ムク犬は主人のお君に向っても、米友に向っても、かつて食事の催促をした覚えがない、まして不平がましい挙動を示したこともない。それは長い間には、自分たちも苦労をしたり、ムクにもずいぶん苦労をさせたが、ムクそのものがかえって我々に苦労をかけたことは一度もない。我々に苦労をかけないのみならず、我々が憂うる時は、我々と共に憂えたが、我々が喜ぶべき時に、彼を喜ばせなかったことが幾度あるか知れない。
 それだのに、ついぞあの犬が、不平と反抗とを表現したことがあるか。あれほどの豪犬だから、食物だって世間並みでは不足があたりまえだのに、世間並みの栄養を給してやることができなかったばかりか、旅路の間では、二日も三日も食わせずに置いたようなこともないではなかったのだ。
 その時、いつ、あいつがひもじい顔をして見せたことがあるか。食物の催促をして見せたことがあるか。今、この子熊がしたように、ガツガツして居催促を試みたことがあるか。

         十二

 宇治山田の米友は、こうして熊の檻車の前に腰打ちかけて、頬杖を突いて何か深く考え込んでしまいました。
 今は、ちょっと立ち上る気にもなれず、立ち上ったところで、どこへどう車を引張り出していいのか、見当がつかず、深い沈黙のうちに若干の時が経ちました。
「君!」
 後ろから肩を叩いた者がある。
「ああ」
 茫然《ぼうぜん》として米友は見廻す。そこに立っているのは、さいぜんの仲人、岡崎藩の美少年梶川与之助でありました。
「何を考え込んでいるのだ」
「何も考えていやあしねえ」
「ともかく、君、あの山吹屋敷まで来ちゃどうだね、君の尋ねるお医者さんのことは心配するがものはないそうだ」
「うん」
「生命には別条なく、これから西へ向って何駅かの間に、極めて無事に、あの先生を発見する見込みがあるそうだから――それはそれでよいとして、君には、あの先生よりも、この荷物が荷になるだろう」
「ううん」
 ううんというのは、否定の意味だか、肯定の意味だかよく分らないが、そう言われてみると、この荷物が荷にならないではない、本来ならば、安否がどうあろうとも、あのことの解決のついたと同時に、道庵先生のあとを慕うて一文字に追いかけなければならぬはずのものが、ぼんやりこうして考え込んでしまっているのは、米友は米友としての深い感慨におちて、その言い知れぬ感慨が米友の頭を重くし、足を鈍くしたものには相違ないが、一方から言えば、このお荷物あればこそである。これさえなければ、ここにこうしてぼん
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