、二の足、三の足を踏んだのは、杖槍を構えた米友の形相《ぎょうそう》が、今までとは全く打って変った厳粛なものである上に、両眼にアリアリと決死の色を浮ばせて来ましたから、馬方がヒヤリと肝を冷やして、思わずたじろいでしまったのです。
だが――騎虎の勢いです。米友を米友と知らない馬子は、名人としての米友の真骨頂を満喫しなければ納まらない運命になる。
だが、また米友としても、それは悲しい武勇伝の一つなのです。この時分に、偶然ではなく、もう少し早めにこの場へ到着せねばならぬ人が到着しました。
見れば前髪立ちのみずみずしい美少年――怖るる色なくその場へ分けて入りました。
その少年、岡崎の郊外で、友のために腕立てをした岡崎藩の美少年、梶川与之助というものです。
いや、梶川一人だけではない。
十一
梶川のともには、江戸からお角さんよりぬきの若い者もついている。自然この背後には宿《しゅく》つぎの駕籠《かご》の中に反身《そりみ》になった女長兵衛も控えていようというものです。それとかなり間隔を置いて別扱いの腫物《はれもの》が、たれも当らずさわらずのところに、乗物を控えさせている様子です。
当然、通るべくして通り合わせたこの一行のうちの、目から鼻へ抜ける美少年の仲裁は、難なく成立してしまいました。その後始末として、お角さんの駕籠の中に呼びつけられた米友の油汗を流しながらの吃々《きつきつ》とした弁明が、かえって当の相手の甚目寺《じもくじ》の音公を失笑させるという次第でした。
米友を相手にあれまで働いた馬子の甚目寺の音公は、米友のお角さんに対する弁明を聞くと、忽《たちま》ち打解けて、かえって大きな口をあいて言いました。
「そいつはお前《めえ》、ぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]にかかんなすったのだよ」
音公はこう言って、米友はじめお角さんの一行に向って、委細呑込み顔に説明するところによると――
道庵先生のさらわれたのは、なるほど一大事突発のようではあるけれども、内容はそれほど驚くべきことでも、憂うべき性質のものでもないということです。
街道筋の雲助は、どうかするとこのぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]ということをやる。つまり道庵先生は、雲助の策略であるところのぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]の手にひっかかったのだ。
ぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]というのは、人間の無断横領で、常にはやらないが、稀れには行われる雲助の政策の一つであるが、危険のようで、実は危険性の更に無いものであるということを、甚目寺の音公が委細語って聞かせました。
それをなおくわしく言えば、雲助が客を送り迎えのために、かなりの遠距離を、空駕籠を飛ばして行かねばならぬ使命を帯びたとする、空駕籠というやつは実のあるのよりも担ぎにくいことを常例とする、肩ざわりから言っても、足並の整調の上から言っても、駕籠の中には、どうしても人間相当の重味のあるものが充実していなければ、遠路を走るイキが合わないという結果になる。
こういう場合に、雲助は、人を頼んでロハで乗ってもらうか、そうでなければ無警告にこのぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]を強行することがある。
つまり、走りながら、空駕籠の充填物《じゅうてんぶつ》にはまりそうなおとりを物色し、それを見つけたことになると、否応いわさずひっとらえて只駕籠の中へねじ込み、目的地までは有無を言わさずに担ぎ込み、まつり込むのである。目的地に着きさえすれば、忽ちつまみ出され御用済みしだい解放されるのだから、生命にも、財産にも、べつだん差障りはないのだし、何十里走らせようとも別にまた駕籠賃だの、酒料《さかて》だのを要求される心配は更に無いとはいえ、ぶったくられ[#「ぶったくられ」に傍点]た当人と、その身寄りの者の迷惑といったらたとうるに物がないのです。
しかしながら雲助といえども、その辺には相当の常識と、社会性とを働かせている、ぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]とは言いながら、その人選は無茶に行われるわけではなく、ぶったくる[#「ぶったくる」に傍点]にしても、なるべく迷惑のかかる範囲の狭いと見られるものを選んでぶったくる[#「ぶったくる」に傍点]ことになっている。
そこで、無論、優良なる階級の旅人や、善良なる土地の住民をぶったくる[#「ぶったくる」に傍点]ようなことはなく、大抵は薄馬鹿だの、きちがいだの、酔っぱらいだの、或いは仲間のうちから自選した奴だの――というのを選定して、ぶったくる[#「ぶったくる」に傍点]。
今日の道庵先生こそは、まさしく雲助の選定を蒙《こうむ》ってぶったくられ[#「ぶったくられ」に傍点]の運命に逢着したものと見れば、かわいそうでもあり、気の毒でもあり、いい面の皮でもあるが、
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