前の方は人助けになるか知れねえが、おいらの馬は助からねえ」
「そんなことを言わねえで、こういう場合なんだから」
「いけねえ……」
 米友が再び馬の上に躍《おど》り上ろうとするのを、馬子が力任せにひきずり下ろした上に、ポカリと一つ食《くら》わせる。
「あっ! 痛え」
「あたりめえよ、手前、気がふれてやがるな、いきなり横から飛び出しやがって、人の馬に飛びついて、よこせの、貸せの、途方もねえ野郎だ、見せしめのためだ、この河童野郎、どうするか……」
 甚目寺《じもくじ》の音公は、米友を引きずり下ろしておいて、力任せにポカリポカリ擲《なぐ》りはじめました。
 常ならば、たとえ一つでもそう擲らせておく米友ではないが、実際、この時は、もうどうしていいか思案に迷い切っていたが、急に決心したのは、どうなるものか、後で話はわからあ、力ずくでも、この馬を一時借りなけりゃならねえ、そうしなけりゃ恩人の命の危急なんだ。
 そこで、度胸を据えた米友が猛然として立ち直りました。
「話はあとでわからあな」
と言って、今までポカリポカリと擲らせていた甚目寺の音公の腕を取ると、物の見事に仏壇返しに地上に投げつけてしまいました。
「あっ!」
と驚いたのは甚目寺の音公でした。たかの知れた小童《こわっぱ》、それにしてはイケ図々しい奴と、懲《こ》らしめのためにポカポカやっていたのだが、急に反抗すると、それは驚くべき腕ざわりで、油断をしていたとはいえ、甚目寺の音公ともあるべきものが、とんぼ返しで、地上へ取って投げられてしまった。
 あっ! と目がくらんだけれども、そこは甚目寺の音公も、草相撲の関を取るくらいの男であり、しかも郷党の先輩、加藤の虎や、福島の市松の手前もあり、投げられてそのまま、ぐんにゃりとしてしまうことはできない、直ちに残して起ち上るや、三たび鞍壺にかじりついていた米友の両足をとって、力任せにグングン引張り、ついにやっとすがりついたばかりの米友をまたしても地上に引きずりおろしてしまいました。
 それから後は、ここでくんずほぐれつ両箇《ふたり》の乱取り組打ちがはじまってしまいました。
 人通りが黒山のようにたかり出したのは、申すまでもないことです。

         十

 この甚目寺《じもくじ》の音公が相撲の手を相当に心得ているということのほかに、なおいっそう米友にとって戦いにくいことは、戦いの名分が、どうしてもあちらに取られてしまいそうなことです。
 この音公は、軽井沢に於ける裸松のように、街道筋から毒虫扱いにされているというほどではないのみならず、草相撲で博した贔屓《ひいき》も人気もあるのに、相手にとった一種異様なグロテスクは、土地の人にさっぱり顔馴染《かおなじみ》がないのみならず、「馬泥棒馬泥棒」という相手方の宣伝が甚《はなはだ》しく、米友にとって不利なものになります。
 事実この音公は、米友を馬泥棒以外の何者とも解釈のしようがなく、見物の人々も馬泥棒の仕業《しわざ》とよりしか米友の仕業を信じ得べき事情を知らないから、すべての環境も、心証も、いよいよ以て米友を不利なものに陥れてしまうのです。
 ただ、かくて見物しながらも、寄ってたかって米友を袋叩きにしてしまわないことは、米友の働きが俊敏であって、怖るべきものがある上に、その態度にドコやら真摯《しんし》なるものがあって、左右《そう》なくは手出しのできない気勢に打たれて、そのまま見ているだけのものですから、群集心理の如何《いかん》によっては、どう形勢が変化しないとも限らず、いずれにしても米友のためには百の不利あって、一の同情が作り出されないというだけのものです。
 そういう事情から、米友の戦いにくいことがいよいよ夥《おびただ》しく、第一、自分自身の正義観からしてが、軽井沢の時のようには働きがないから、投げつけてみたところで、大地にメリ込むほどやっつける気力が減退し、相手に怪我をさせてまでその戦闘力を封じる手段にも出で難く、そこで米友としては、その力の十分の一も発揮できないでいる始末です――
 こんな形勢が続けば、いよいよ以て米友の立場が悪化するばかりです。米友としては、ほとんど進退に窮する場合にまで立至って、徒らに組んずほぐれつしていましたが、相手はいよいよ嵩《かさ》にかかって、小力を十二分に発揮して相撲の手を濫用して来るから、米友が怒りました。別の意味で怒りました。
 こうなった上は、こっちを本当にやっつけておいてからでないと動きがとれない――
 みるみる米友の眼に、すさまじい真剣の気合が満ち、
「やい――わからずや!」
 音公をなげつけておいて杖槍を取り上げたものだから、音公が、
「盗人《ぬすっと》たけだけしいとは、本当に手前《てめえ》のことだ、うむ、どうするか」
 掴《つか》みかかろうとした音公が
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