信さんだから心配はありませんが、わたしの心細かったこと」
「いや、もうよろしうございます、芸術の魅力は怖ろしいとは申せ、それは一時的のものでございますからな、鈴慕が終ると共に、悪気がすっかり消滅してしまいました。そこで、今晩は、こうして関守のお方の好意に甘えて、ここに草鞋をとかせていただくことになりました――お雪ちゃん、あなたも……」
「お嬢さん、弁信さんがここで草鞋をぬぐ以上は、あなたも、今晩は見苦しくとも、不破の関屋の板びさしの中で、一夜を明かしていただかねばなりません」
 関守が、お雪ちゃんの方を向いて言うと、お雪ちゃんは頭を下げました。
「願ってもない仕合せでございます」
 その時、お銀様が言いました、
「では、わたくしも今晩はここで御厄介になります、皆さんでまた、炉辺の物語に明かそうではありませんか」
 お銀様の言うこともまた平穏でありました。
 お銀様は決して、お雪ちゃんを裂いて食ってしまいはしなかったのです。
 お雪ちゃんその人もまた、お銀様というものに、なんらの危険性をも感じてはいないようです。ですけれども、それが本当の熟した魂の産み出した懇親なのでしょうか。
 弁信はしきりに、悪気が消滅した、悪気が消滅したと言って、安心を保証しているけれども、悪気を作りだした本尊そのものが、ここにいないではないか。鈴慕の曲に悪気をこめて吹一吹《すいいっすい》したその本尊様の存在が不明では、消滅が消滅にならないように、安心が安心の保証にならないではないか。
 でも見渡す限りのこの不破の古関のあとの、庭にも、藪《やぶ》にも、畠にも、爽涼《そうりょう》たる初秋の気が充《み》ちて、悪気の揺ぐ影は少しもありません。
 かくて、例の白昼の炉辺へ来て見ても、天井の低い、板目も古びた一室ではあるが、陰惨とか、瘴毒《しょうどく》とかいうような気分は無く、炉中の火が明るく燃えているのが、多少の肌寒い身に快感を与えるほどのものです。
 天井の上にも、縁の下にも、さらに悪気が滞《たま》って人を撲《う》つなんという趣は少しもないのです。
 今や、四人の主客が、この白昼の炉辺をほどよく囲みました。
 主人は主人としての常座を占め、客のうちでは最も遠慮のない弁信が、最も炉辺に近く座を占め、それにつづいてお雪ちゃん――最後にお銀様は、ずっと控え目に……
 それでもやはり、一座の女王気分は失わず、見ようによっては、正座を占めた形で坐っておりました。
 主人がまだ語らない先、弁信がその弁口の洪水をきって落さない前、お雪ちゃんが、この平穏な席上、弁信のいわゆる悪気流が悉《ことごと》く流れ去った後のこの炉辺で、二つの異様な光景を見て取りました。
 その一つは、このおだやかな快感に満ちた炉中の焚火の中に、一管の卑《いや》しからぬ短笛――すなわち尺八が、無残にも燃えさしとなって残っていることと、もう一つは、控え目にこそ坐っているが、同行の貴婦人が室内に入っても、なお且つ、その覆面の頭巾《ずきん》を取らないということでありました。
 まだ時候が少々早いとはいえ、この貴婦人は広原の荒い風を厭《いと》うために、わざと頭巾をしているものだとばかりお雪ちゃんは見ておりましたが、こうして室内に入ってからも、頭巾を取ることをしないのは――左様な不作法をわきまえないほどの人でないことはわかりきっている、それがわかりきっていながら、その不作法をあえてしているには、あえてしているだけの事情か理由がなければならないと、お雪ちゃんが思いました。それは決して、我々を軽蔑しきっている振舞であってはなりません。

         八十六

 それらの事情が判明しない前に、関守は懐中から一枚の書附を出して、お銀様の前に置きました。
「これが水野家からの仮受取でございます、そちらへお渡し申します」
 お銀様はその受取の書附を取り上げて、
「弁信さん」
 挨拶は弁信の方へ向いました。
「弁信さん、これで、わたしの領土が出来ました、今度は、わたしの領土です、父の地内ではありません、あなたも、心置きなく住っていただかなければなりませんよ」
「領土と申しますと?」
 弁信が小首を傾《かし》げるのを、今度は関守が取って説明しました。
 その言うところによると、お銀様が、今度この土地で地所を買入れたということであって、買主は無論お銀様であって、その中間に立ったのがほかならぬこの関守、それからお銀様のために地所を売ったのが、西美濃で名代の名家、水野家であるとのことです。
 水野家というのは、西美濃山谷で、足利尊氏《あしかがたかうじ》以来の名家だそうであります。名家ではあるが、出でて仕えることをしないで、郷士、浪人の地位に甘んじているが、その実力は相当の大名に匹敵する。太閤秀吉も、出でて仕えんことを以て招いたけれど
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