え洩《も》れませんでした。
暫くあって門の扉を開いた関守も、以前の関守に相違ないけれども、庭には昨夜の名残《なご》りの焚火のあとがあるばかり、庭を通して、広くもあらぬ板廂《いたびさし》の中をうかがっても、いっこう他の人の気配ありとも覚えぬことが、お雪ちゃんにとっては全く案外でありました。
「只今これへ、弁信さん――琵琶を背中にしょった、小さい、盲目《めくら》の坊さんが見えませんでしたか」
関守にたずねてみると、関守はいっこう合点《がてん》せず、
「いいえ――どなたも」
「おや」
お雪ちゃんは、またも途方に暮るるの思いで、
「では、ここで尺八を吹いておいでになったのは、どなた様でございましたか、あの鈴慕の曲を……」
「は、は、は」
それには、関守も多少、星をさされたらしいが、それを打消して、
「それは、かく申す拙者の手すさびでございましたろう」
「それは違いはしませんか」
「違うはずはございません」
「でも、さきほど聞えました、あの鈴慕は……」
鈴慕、鈴慕とお雪ちゃんの口から繰返されるごとに、関守も何やら痛いところを刺されるの思いがするように、気のせいか、見受けられる。
その間、南条と五十嵐は、関守の案内を待たず、無遠慮に、庭をめぐり、碑面を撫《ぶ》し、塔の文字を読もうとしたりなどしています。
今や、お雪ちゃんは全く途方に暮れてしまい、泣き出したくなったのを、やっと我慢し、ここで大声をあげて、弁信の名を呼んでみようかと思ったのをじっと我慢していると、関守が縁のところへ、お茶を三つ持って来ました。南条、五十嵐も一通り、関屋の庭を経めぐって縁に腰をおろし、それから、主人をとらえて、古事を談じはじめ、主人は白鳳時代の古瓦といったようなものを持ち出して説明につとめるものですから、お雪ちゃんは全く所在なく、椎《しい》の大木の下に立ちすくんで、古びた家と、荒れたる庭とを見渡すと、この荒れたる庭の真下に、せんかんとして小川が流れていることを知りました。
その時、今もたずねられた、人のよくいう関の藤川というのが、それではないかと思いました。
こうなってみると、それは全く取越し以上の取越し苦労だが、弁信さんが、もしやあの川の中へでも落ち込んでしまったことではないかとすら、お雪ちゃんが胸を躍《おど》らしてみたりしました。
弁信さんともあろうものが、そんなはずはないにきまっている。雪の大野ヶ原だの、飛騨、信濃の白骨、安房峠だのを、噴烟《ふんえん》の中から越えて来たほどの弁信さんが、こんな平原の小さな川へ落ちて溺れるなんていうことは有り得べきことではないが、この際の、動静のすべてがあんまり案外なものですから、ついそんな気にもなって見ると、垣根の一方から下へおりるような小径《こみち》がある――そんなところまでをお雪ちゃんは眼にとめて、また関屋の方へ眼をうつしました。
どうも、あの関守さんの返答ぶりが歯切れが悪いと思い返さずにはおられません。やっぱり隠しているのだと思われないわけにはゆきません。それも悪意で隠し立てをしているのではないだけに、始末が悪いとも思ったり、隠したところで、見渡すところ、あれだけの住居《すまい》なのだから、ほとんど隠れるところはあるまいに――してみれば、今まではいたのかも知れないが、わたしが来る前にここを立去ったのかも知れない、ことによると虚無僧姿で流れて来て、吹一吹《すいいっすい》して去るといったようなことかも知れない、それならそれとして、弁信さんはどうしたものです、弁信さんが来たことまで隠す必要はないではないか、しかも来ないということはないのです、たとえ五町十町と距《へだた》っているところなら知らず、たしかに屋の棟が見えるところから、ここをたずねた人が、どう間違っても戸惑いするはずはありはしない、まして弁信さんだもの、あの勘のいい弁信さんだもの――その人の来たことをさえ隠す関守さんは、何か腹黒いたくらみのある人ではないかと、お雪ちゃんの純な心に疑惑の雲をかぶせたほど、当惑したものになりました。仰ぐと、椎《しい》だの、樫《かし》だのの大木の枝が、頭上に竜蛇の如く交叉《こうさ》して、それを仰ぐさえ、自分の心を暗いものにしてしまいます。
「おっとっと――」
その時に、自分がさいぜん見つけ出した、藤川の岸へ下りるであろうところの藪《やぶ》の崖道の中から、むくむくと姿を現わしたものがありました。
「おっとっと――」
それを見ると、意外にも、たったいま常盤御前のお堂の前で別れた、頭巾の権高《けんだか》の貴婦人を迎えに来たところの杖を携えた小怪漢――すなわち宇治山田の米友でしたが、お雪ちゃんは、その出現ぶりに、なんだか夢に夢を見るような思いをさせられました。
八十三
崖道の小笹の中から現われ出
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