てやったものですから、竜之助も、それを受けないわけにはゆきません。
「では一つ、お聞きに入れますかな」
 彼は膝を組み直して、一管を斜《しゃ》に構えました。
「いい形ですね、あなたのは、形が出来ていますよ」
と関守が言う。
 お世辞ではない。
 まさか、尺八を吹くのに音無しの構えというのがあろうとも思われないが、吹かんとして構えた姿勢は物になっていました。
 物になっていなければならないはずです。剣を取るにしてからが、字を書くにしてからが、形がととのわなくて物になるはずはない、物になっている人で、形のととのわぬ人というものはあるべきはずのものではないから。
 関守は、尺八を取り直した竜之助の姿勢を見て賞《ほ》めました。
 賞められた竜之助としては、正師をとって、そうして、厳しくしつけられた形ではないが、父の弾正の遺伝として、こうしなければ音を出せないものとの観念が、知らず識《し》らず出来ているに相違ない。
 そうして、歌口をしめすと、無雑作に尺八が音を立てそめました。
 吹き出でたのは、例の覚えの「鈴慕」の一曲。
 それ、「虚空」が天上の音であって「虚霊」が中有《ちゅうう》の音、「鈴慕」に至って、はじめて人間《じんかん》の音である――ということは前に述べたこともある。それを繰返して言えば、行けども行けども足の地上を離るるということなき人間の旅――歩み歩ませられながら、御自分は、いずれより来って、いずれに行くやを知らない、萩のうわ風ものわびしく、萩のうら風ものさびしい、この地上を吹かれ吹かれ、流され流され行く人生――そこに蝸牛角上の争いはあるけれども、魚竜ついに天に昇るのかけはしは無い、纔《わず》かに足を地につけながら仰いで天上の楽に憧れるの恋がある、「鈴慕」は実にそれです。さればこそ、無限の空間のうちに、眇眇《びょう》たるうつせみの一身を歩ませ、起るところなく、終るところなく、時間の浪路を、今日も、昨日も、明日も、明後日も、歩み歩み歩ませられて尽くることなき、旅路になやむ人にとっては、「鈴慕」の音節ほど、人間の脳を根本から振り動かして泣かせるものはないのです。
 ただ、音楽というものは天才の仕事であるし、天才はまた人格――世間の言うよりは、もっと広い意味に於ての人格の仕事には相違ないけれども――ただ一つ、最も怖るべきことは天才が無くとも、人格が無くとも、ただ楽器そのものの有する権能が、それにハープを与えさえすれば、ある点まで人生の秘奥が開放されてしまうという危険――ヤスヤナポリヤナの聖人は、これがために渾身《こんしん》の恐怖を感じている。孔夫子でさえも、その人によってその楽《がく》を捨てず、とはまだ道破していなかった。自ら感ぜさせたものが、人を感ぜしめるところの烈しい魔力。
 天上に導く力があるものは、また地上に叩き落す力もなければならない。
 吹き終った時、怖ろしいほど長い沈黙が二人の間に続きましたが、その後に、関守が感慨深く言いました、
「われわれ世捨人にとって、鈴慕の曲ほど罪な曲はありません――」

         七十六

 何が、どう緒《いとぐち》になったか知れないうちに、関守の懺悔話《ざんげばなし》となりました。
「やつがれが漂浪の身も、もとはと言えば恋からです。恋も、尋常の青春の戯れというようなものではありませんでした、血の出るような恋愛――つまり、不義の恋であったのですな。もとより、主ある人の妻を犯したのです」
「…………」
 竜之助は、関守の己《おの》れを曝露することに対して呻《うめ》きました。
「まあ、お聞き下さい、こんなことは話をするのも愚かの至りですけれど、この愚かさを引出したのは、あなたの鈴慕です。あなたの鈴慕は、人をして天上にあこがれしめないで、地上に引落す鈴慕でしたから、是非もありません。そこで……」
 それを前置にして関守は、次のような長話にうつりました。
「拙者が、若い、まだ二十台の時分でした、拙者の友人に妻がありました、その時は拙者にも、もはや女房があったのですが、その友人の妻は、家中でも一二と言われる美人でした、美人でそうして貞淑な、ほんとうに奥様として申し分のない女でありました。その友人というのが、無論、拙者には竹馬の友でして、鈍重な男ではあるが、軽薄才子ではありません。おたがいは兄弟同様の交りをつづけていたものですが、その友人の妻と夫との間は、それよりも親しいものでした。親族関係はないが、双方の親たちが許して、子供の時分から友人の家へ引取って、生活を共にしているものですから、当人たちは他人ということも、行末は夫婦というものになるのだということも、よく知っておりながら、その感情は、兄妹と同じように熟してしまっているのですから、いざ結婚ということが、少しも感激になりませんでした。要するに
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