るまで、旅人の口に「のろま[#「のろま」に傍点]」の名が上らないということはありません。
 清次は図に当れりと思いました。これだけ売り込んで置けば、それが、のろま[#「のろま」に傍点]餅であろうが、のろま[#「のろま」に傍点]染であろうが、のろま[#「のろま」に傍点]薬であろうが、相当に当ること疑いなし。
 見よ見よ、期年ならずして、のろま[#「のろま」に傍点]の名が京阪を圧倒し、その名によって営む商売が、一つとして成功せざるは無く、富と名とを一時に贏《か》ち得て、一代を羨望せしむるは遠い将来のことではないぞ。彼はひとり、この成功を想像して、王者の意気になりました。
 さて、その次には、功成り名遂げた後の名爵のことをも考えました。
 いよいよ自分の成功に貫禄がついて、たとえば従三位文部卿のような地位にまで上り、下々《しもじも》に訓諭を垂れたりする場合になると、売りこんだのろま[#「のろま」に傍点]清次の名がかえって仇をなす。
 商売用としてはそれで差支えないが、かりに従三位文部卿にでもなった場合に、のろま[#「のろま」に傍点]清次の名はふさわしくないということまで考えました。
 そこで、機敏に働く彼の頭脳が、最もよき語呂の転換を教えました。
[#ここから1字下げ]
「のろま聖人」
[#ここで字下げ終わり]
 これがよろしい。これならば、以て一代に向って訓諭を垂れるに足る名前である。
 成功するまでは、のろま[#「のろま」に傍点]清次でよろしいが、成功した以上は「のろま[#「のろま」に傍点]聖人」――この名を中外に宣揚することをまで、深く心の底に考えました。
 ああ、この周到なる未来の成功の麒麟児《きりんじ》を呼んで、「のろま」とは誰がつけた?

         七十

 関ヶ原の環境の波動がこういう次第のものである中に、ひとり取残されたものに黒血川の髑髏《されこうべ》がある。
 米友の手から離れて、ひとたびは宙天に飛び上り、また川の流れの上に落ちて、よろめき流るること二三間、ささやかな流れ川のなぎに堰《せ》き留められたままで、下は流れに冷され、上は秋風に吹かれて、尾花苅萱《おばなかるかや》の中にあなめあなめと泣いている、この骸骨。
 北国街道の彼方《かなた》に於ては道庵大御所の旗本が電光石火を降らしている間、不破の古関に於ては風変りの関守と、昨夜「関山月」を聞き分けて来た怪しい覆面のない男とが、白昼、炉を擁して端坐している時――かの髑髏はひとり黒血川の流れに漂うて、あなめあなめと泣いているが、それをとむらい来《きた》るものはありません。
 思うにお銀様が、この髑髏《されこうべ》をかつぎ出した所以《ゆえん》のものは――考証的にこれこそ目指すところの大谷刑部少輔の首よ、と主張すべき根拠はなにものも無かったというべきであります。
 その当時ですら秘密にされてあり、また、三成、行長、安国寺あたりの首は、白昼都大路で梟《さら》されようとも、この男の首だけは秘密にしてやるべきことが武士道に叶っている――それが今日になって、何人の手に於ても考証が届くはずはなかろう。まして通り一ぺんのお銀様あたりの手で、発《あば》かれ出されようはずもないのであります。
 しかしまた歴史的考証や、科学的の探求のほかに、お銀様特有の神秘力とでもいったような働きから、ついに何人も未《いま》だ探知し得なかった古人の骸《むくろ》を感得し得たのか、そのことはわからないが、よしこの髑髏が、大谷刑部少輔そのものの骸骨ではないとしたところが、ここは、やっぱり、夏草やつわものどもが夢のあと――なんだから、いずれのところにか偶然、露出されていた無縁の骸骨のいずれの一つか、当年の腥風血雨の洗礼を受けていないということは言えない。
 ただ枯骨がものを言わないだけのものである。物を言わないではない、現に、あなめあなめと言ったことになっているが、それは髑髏が言っているのではない、秋草が言わせているのだ。
 由来、関ヶ原の本当の悲劇は慶長五年にあるのではない。
 慶長五年を遡《さかのぼ》ること九百三十年の昔、大炊省《おおいづかさ》の八つの鼎《かなえ》が、八つながら鳴り出した時に起っている。
 慶長|庚子《かのえね》の関ヶ原は悲壮ではあるが、どちらも戦い得る器量だけに戦い、器量いっぱいに敗れたものと言いつべきだから、天下は帰するところに帰したもので、大局から言えば成敗共にうらみなき合戦であった。
 ところが、白鳳|壬申《じんしん》の秋の不破の関の悲劇は、その恨みが綿々として千古に尽きない。
 黒血川の名はその時から起り、今こそ水は澄んでいるが、髑髏を見ると、流れ去ることを沮《はば》んで恨みをとどめようとするのは、千百年にしてなお浮べないものがあるからだ。
 ちょうどこの日、北国街道の小関、
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