天満山の麓では、道庵先生の旗風が三たび靡《なび》き、三たび立直っている激戦の最中――その矢叫びも、棒ちぎれも、ここまでは届かない閑寂なる黒血川の岸。
 秋草が繚乱《りょうらん》として、川に流れやらぬ髑髏を、あなめあなめと泣かせたり、尾花が手を延べて、千古浮べないというものをなぶったりしている、昼のしんかんたる景色。
 それが、日の天に冲《ちゅう》するほど、いよいよ物寂しい景色、昨夜の物好きなグロテスク人種以外には、白昼といえども、誰あってこんなところまで足を踏み入れるはずはないのだから、こうしてさびしいままで一日を送り、一夜を迎えるほかにはあるまいと思われたのに、その日中――耳を驚かすのは、はたはたとものさびしい上にものさびしさを加える軽い足音が、ここ黒血川辺のすすき尾花の中に消えては起り、起っては消えて来る。
 では、やっぱりこんなところを通る人もある。いや、虫を追い、虫を追って、つい帰路を忘れた里の童《わらべ》たちだろう――しかしその断続した足音を聞いていると、静かではあり、軽くはあるが、踏む調子は正しい、いたずらに虫を追い、虫を追うて彷徨《さまよ》うている里の童のたぐいではなく、一定の目的を以てこの道をよぎる旅人の足音と聞いた方が正しいのです。
 果して――すすき尾花の中から、二人連れの旅人が現われました。
 前なるは弁信法師――後ろなるはお雪ちゃんでありました。
「川があります」
 お雪ちゃんがいう。
「越せますか」
「越せますけれど、はだしにならないと――」
「お雪ちゃん――二人が二人はだしになるはムダですから、わたしがあなたをおぶってあげます」
「弁信さんの力で?」
「お雪ちゃんのからだですもの」
「でも、弁信さんは、琵琶を背負っている。こうしましょう、わたしが琵琶ぐるみ弁信さんをおぶいましょう、ほんの一間ばかりのところですもの」
「男子の身が女人に負われることは逆縁のようでございますけれども、弁信でございますから、お雪ちゃんの重荷にはなりますまい――では、そういうことに願ってもようございます……」
 お雪ちゃんが弁信さんをおぶって、この小流れを越すことになりました。
「あ!」
 その川幅僅か一間の小流れの中流で、弁信を背負ったお雪ちゃんが立ちすくんで「あ!」と言いました。
 それは、申すまでもなく、中流に流れもやらず留まりも敢《あ》えずに漂動して、あなめあなめと泣いている髑髏《されこうべ》を見たからです。
「何ですか、お雪ちゃん」
 背中の上で弁信がたずねました。
「まあ、気味の悪い人間の髑髏《どくろ》が一つ、ここに流れています」
「髑髏ですか」
「全く生きて物を言っているように、川の真中に流れも敢えず……」
「そうですか」
 その時にもう、弁信法師の身は向うの岸に渡されて、以前、米友が四方転びになったところあたりに安全に置かれてありました。
「ほんとうに、まあ、この髑髏は、生きてわたしたちに物を言いかけるようです」
「供養をしてやりましょう」
「水に流して、流れるところまで流してやりましょうか」
「いいえ、水に流すと、流れの末が心配でございます」
「では――」
 お雪ちゃんは、この上もなく気味も悪いし、怖くもあるが、そうかといって、もう捨てては置けないものになりました。
 髑髏に物を言いかけられて、引寄せられでもしたもののように、するすると再び川の中流へ戻って来て、機械がさせるもののように、その髑髏を手に取って掬《すく》い上げてしまいました。
 それを両手に捧げて、見えない眼の弁信に見せるような形をし、
「弁信さん、どうしましょう」
「そうですね、地水火風のうちに溶かして、空《くう》にしてあげるのがいちばん功徳《くどく》だと思いますが、すでに、もう地の中をくぐり、水の中を漂うて、それで空にならない因縁の髑髏ですから、この上は火で供養するよりほかはありますまいと思います」
「では、火葬にしてあげるのですか」
「そうです」
「火葬――火で焼くことは、わたしは好きではありません、弁信さん――あのイヤなおばさんも……」
 お雪ちゃんは、イヤなおばさんのことが、ついこんな時に自分の口から飛び出したことを、自分ながら心外なりとしました。
 そんな不快な聯想をここへ持ち出して、この無縁の骸骨にまで、業縁を加えたくはないと思いました。そして、イヤなおばさん……と言っただけで口をつぐんで、
「人間の身体を火で焼くということは、勿体《もったい》ないと私には思われてなりません、じっとして置けば、いつかまた魂が戻って来るような気がして……」
「魂魄《こんぱく》が戻って来ていいこともありますが、戻って来ていよいよ業縁を重ねるのは、よろしくございません、善縁悪縁にかかわらず、火の供養を以て一切空《いっさいくう》の世界へ送ってあげるのが、一
前へ 次へ
全110ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング