、道庵先生が馬上で指を噛《か》みました。
六十六
ここで道庵が指を噛んだのは、全く芝居でもなければ、日頃の手癖でもなく、これはまた真剣に、大変なことになっちまった、どうにも始末がつかねえ、という絶体絶命の表情でありました。
ところがこの時分に、見物の中に、二人の異様な人物がいて、道庵先生の指を噛んだところを大問題として、真剣に取扱っているという場面がありました。
その二人というのは、見覚えのある人はあるべき南条と五十嵐との二人の浪士であります。これも計らずこの辺へ通りかかって、今日の模擬戦を最初から極めて興味を以て見物していたのだが、道庵先生がいよいよ指を噛む時節になって南条が言いました。
「いよいよ、古狸も指を噛むようになったな。およそ日本の歴史上に、この関ヶ原の合戦ほど心憎い戦《いくさ》というものはない。すべての戦が、すべて勝負は時の運ということになっているのだが、勝敗の数をあらかじめ明らかにして、しかも最初からわかりきったはめ[#「はめ」に傍点]手にかけ、目指す大名を、豚の子のようにみな相当大きくしてから取るといった図々しい横着な戦争というものは他にあるべきはずのものじゃない。徳川の古狸を心から憎いと思う者も、その力量のあくまで段違いということを認めないものはない。それでいて、戦うものは戦い、敗れるものは敗れて亡びなければならないというのが運命だ。悠々《ゆうゆう》として落着き払って、遠まきに豚を檻の中に追い込み、最後にギュッと締めてしまう、すべてが予定の行動だ――こんな行動と結果のわかりきった戦争というものは無いが、ただ一つわからないものがある。それはあの古狸が、秀秋いまだ反《そむ》かざる前に伜《せがれ》めに計られて口惜《くや》しい口惜しいと憤って指を噛んだということだ。家康は若い時から、自分の軍が危なくなると指を噛む癖がある、その癖がこの際に出たということはわからない――本来この関ヶ原の戦は、家康が打ったはめ[#「はめ」に傍点]手通りに行っている戦で、どう間違っても家康に指を噛ませるように出来ていない芝居であったのが、あの際、指を噛ませることになったのは、たしかに芝居ではない、家康としては、重大なる不覚といわなければならぬ。本因坊が石田、小西の四五段というところを相手にして、終局の勝ちは袋の物をさぐるような進行中、指を噛まねばならなくなったということは、たしかに失策であり、そうでなければ誤算なのだ。本来、あの際に、誤算なんぞを、頼まれてもやるべき家康ではない、幼少以来鍛えに鍛えた海道一の弓取りだ、敵を知り、我を知ることに於ては神様だ。あらかじめ斥候《せっこう》の連中が皆、上方勢を十万、十四五万と評価して報告して来るうちに、黒田家の毛谷|主水《もんど》だけが、敵は総勢一万八千に過ぎないと言う。軍勢をはかるには、京大阪の町人共が算盤《そろばん》の上で金銀米銭の算用をするような了見では相成らぬ、なるほど、上方勢十万も十五万もあるだろうが、高い山へ陣取っているものは、平地の合戦には間に合わぬものだ、上方勢で実戦に堪え得るものは一万八千に過ぎない、それ故、味方大勝利疑いなしと毛谷主水が家康の前で広言して、家康をして、『よく申した、武功の者でなければその鑑定はできない』と言って、手ずから饅頭《まんじゅう》を取って毛谷主水にくれた。無論そのくらいのことは家康はとうに読みきっている。今いう、毛谷主水の一万八千人は、つまり石田の手兵五千と小西の六千、大谷の千五百人というそれに、宇喜多軍の一部を加えたものに過ぎない、とにかく西軍の実勢力は二万に足らぬ小勢であったとは見る人はきっと見ている。その二万に足らぬ小勢が、十万以上の古狸の百練千磨の大軍と、去就《きょしゅう》不明の十万以上の味方を足手まといにしながら、家康に指を噛ませたという超人間力の出所を、もう一ぺん我々は見直さなければならない。ここが家康の誤算なき誤算なのだ。決死の軍に超数学的の援兵がある真実は、幼少の時、阿部川の印地打ちの勝敗を予言したほどの家康は、知って知り過ぎている、それがなお且つ、それを計りそこねたのだ。家康をして、指を噛むことをもう一分遅からしめると、天下のことはどうなったかわからぬ」
南条が評し、五十嵐が耳を傾けながら、前面の模擬戦の危急を見ている。その時あちらでは、指を噛みきれなくなった模造大御所が、自ら馬を飛ばしたのか、馬が驚いてはやり出したのか、まっしぐらに大御所を乗せて戦争の渦中へ走り込むのを見ました。
「あ、危ない!」
当年の大御所の指を噛んだという一節を特に強調していた南条もまた、目下の大御所の危急を見て、あっとそちらへ眼を向けないわけにはゆきません。
「言わないことじゃない、生兵法《なまびょうほう》大怪我のもと――道楽もい
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