、戦争ごっこをしたい希望者のために賃貸しでもするものか知らん。そんなことはあるまい、三都の芝居の大道具小道具をすっかり集めたからとて、こうは揃うはずはないんだから、てっきり急拵《きゅうごしら》えの間に合せものに過ぎないのだが、間に合せものにしろ何にしろ、僅か一時《いっとき》の間にこれだけの旗幟をととのえ、それにおのおの、れっきと各大名の旗印、紋所というものを打ち出している。これを見るとお角さんが、道庵先生の腕を凄いものだと考えずにはおられません。先生の腕ではない、こっちから投げ出した百両の金の威力だと考え直してみても、そんならお前に百両やるからこれだけの旗を集めてみろと言われても、残念ながら覚束ない。してみると、道庵先生もやっぱり只の鼠じゃない――口惜《くや》しいという気にもなってみました。
 それはとにかく、女でこそあれ、お角さんのような血の気の多い気象の者には、このあたりにへんぽんたる日本国中すぐった大大名の旗印をながめると、舞台背景そのものが実地であるだけに、芝居の書割より、より以上の実感に迫られ、自分が腕によりをかけて、満都の人気を吸い寄せて溜飲を下げるのも面白いが、こうして日本中の大名を相手に、真剣な大芝居を打ってみる人はさぞ面白いでしょうね。
 男に限ります。男でなけりゃ、こういった大芝居は打てませんねえ――大御所権現様という方のエラサがこうして見ると、はっきり分りますねえ。だが、大御所権現様のエライことがはっきり分ると共に、それを向うに廻した石田さんという人のエラサも一層よくわかりますねえ。さあ、どちらかと言えばわたしはここでは石田三成を買って出ますねえ――勝ち負けなんぞは、お前さん、時の運ですからねえ、これだけのものを相手にとって大芝居を打てさえすりゃあ、勝ち負けなんぞはどうだっていいさ、わたしゃ石田三成を買って出る。
 江戸ッ子であるお角さんをして、思いもよらず江州人石田治部少輔の同情者としてしまいました。
 とにかく、この模擬戦はお角さんをしてお手前ものの興行以上の興味を持たせたに相違ありません。このまま宿に引返して寝てなんぞいられるものですか、行くところまで行って、道庵先生のお手並を拝見しましょうよ。こういう意味で、お角さんもまた手勢を引具して、道庵先生の大御所の出陣のあとを追うて産土八幡《うぶすなはちまん》から、北国街道を小関の方へ、押し進んで行ったものです。
 お角さんが藤川の土橋を越えて、北国街道を進んで行く時分に、大御所の旗下と、天満山の麓に配って置いた小西、宇喜多の先鋒とが、今し戦端を開いたところであります。
 両陣で陣鉦《じんかね》、陣太鼓が鳴る――バラバラと現われた両軍の先頭、いずれも真黒な裸体の雲助で、おのおの長い竹竿を持っている、竹槍かと見れば先が尖《とが》っていない。
 天満山の下なる西軍にも大将らしいのはいるが、こちらの道庵大御所の陣羽織を着て采配を振っている気取り方、それを見ると、お角さんがまた、ばかばかしいねえと、くしゃみをせずにはいられません。
 その両軍の先鋒が長い竹竿で、ちょっと叩き合いがはじまったかと見た途端、本陣の旗もとで一声高く法螺《ほら》の音が響き渡りました。これはもとより進めかかれの合図ではなく、戦端の開かれたのをキッカケに休戦の合図であって、火花を散らさんとする途端で鉾《ほこ》を納めて、これから幕僚の講評にうつる順序のための法螺の音でなければなりません。
 困ったことには、この休戦の合図が徹底しませんでした。いや、徹底はしたけれども実行されませんでした。
 もちろん、このくらいの高音に鳴らした法螺の音ですから、敵味方の間に透徹しないはずはなかったのですけれども、騎虎の勢いに駆《か》られた接戦の両軍の軍気を如何《いかん》ともすることはできませんでした。
 はからずも休戦の合図が、突貫の号令となり、忽《たちま》ちその長い竹竿で、突合い、なぐり合いがはじまると、仮戦は全く実戦に入りました。
「あっ、こういうはずじゃなかったんだ」
 本陣の大御所はそれと見て狼狽し、左右に命じてあわただしく、第二の休戦の法螺をいよいよ高々と吹かせました。
 だが、この高らかに吹かせた第二の休戦の合図が、ついに乱戦の口火となってしまったのは、是非もないことと言わねばならぬ。
 竹竿での叩き合いを事面倒なりとする裸虫の雲助は、竿を投げ捨てて組んずほぐれつの大格闘に移り、その惨憺たる有様、身の毛もよだつばかりになりました。
「大将の命令を聞かねえか、休戦の合図が耳に入らねえのか、実地と芝居の区別がつかねえのか――やめろ、やめろ、戦《いくさ》をやめろ! 休戦だよ、休戦だってえば」
 こういって馬上の大将は、わめき立てたが追っつかない。乱戦激闘がうずを巻いて手のつけようも、号令の下しようもないので
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