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 とりあえず最も肝要なるは旗差物である。野上から用意して来た赤と白の幟だけでは不足である。そこでこの宿でまた紙といわず、布といわず、旗になるべき原料のすべてを買い集め――続々と参加する軍勢を、当年の陣形によって幾組にも分ち、おのおのその家々の旗を持たせて、部署を分けるという段取りになる。しかしながら、こうして部署を定め、旗幟《はたのぼり》を割振ったところで、いずれも同じような赤と白とのほかに、鬱金《うこん》だの、浅黄だの、正一位稲荷だの、八雲明神だのばかりでは困る。各軍家々の旗印を分けて持たせなければ、どれが東軍で、どれが西軍で、どれが大御所の本陣で、どれが井伊で、どれが本多で、どれが石田、小西だか、毛利、宇喜多、小早川――さっぱりわからないではないか。そこで、どうしてもこの無数の旗に、家々の紋所、馬印を描かなければならぬというところへ来て、道庵がまた行詰りました。
 道庵先生いかに博学なりとはいえ、軍学のことはまた畠違いである、関ヶ原合戦に参加したところの各大名の紋所馬印を、いちいち暗記しているはずがない――土地の古老、物識《ものし》りだからといって、昨日今日の戦いのことではなし、小西の紋がどうで、石田がどうで、安国寺がどうで、小早川がどうだということを、精細に心得ている者が無い。
「ハタと困った」
 道庵先生、洒落《しゃれ》どころではない。旗があって印のない間抜けがあるものか――昔の戦争は、この家々の紋所が皆もの[#「もの」に傍点]を言ったのだ、さあ、諸大名の紋所――紋帳は無いか。武鑑があったところで、慶長五年の武鑑でなけりゃ間に合わねえよ。
 道庵先生がハタと困った時、それでも、すべて潮合いのいい時はいいもので、この際、旗幟の故実をかなり精細に心得た救い主が現われたというのは別人ではなく――昨夜、寝物語の里で追払いを食って、一段の風流と伸《の》して来た二人の風流人であります。
「左様な儀ならば、不肖ながら拙者が大ようは心得ている」
と言って、硯《すずり》と紙を置いて、関ヶ原合戦参加の大名の名を思い出し、書きに書き並べ、その頭へいちいち、心覚えの紋所を描いて行きました。
 まず大御所の金扇馬標から始めて、石田三成の大吉大一大万の旗を作り、次に福島正則が白地に紺の山道、小西行長は糸車か四目結――黒田が藤巴《ふじともえ》で、島津は十文字、井伊が橘《たちばな》で、毛利が三星一文字、細川の九曜――西軍の総帥格宇喜多中納言と、裏切者の小早川秀秋は、共に豊臣太閤のお覚えめでたい子分だから、これは当然に桐、本多の立葵に藤堂の蔦《つた》――それから、東西きっての器量人大谷吉継は、たしか鶴の丸だと心得ましたが、いかがなものでございましたかしら。
 何しても旅中のことで、的確な史料を得ることができませんから、この辺で悪《あ》しからず……と心覚えの紋所を、それからそれと描き出したので、道庵をはじめ、この風流人の博識に感心して、それを手本として、筆の達者なものが競《きそ》って家々の旗を描き上げました。
 そこで軍容が悉《ことごと》くととのい、産土八幡《うぶすなはちまん》の前を右に、北国街道へ向って陣を進め、笹尾山の上に翻された石田三成の大吉大一大万の旗をまともに、天満山を後ろにした宇喜多、小西の大軍を左に見て悠々と馬をすすめる大御所道庵、かくて一わたりの模擬戦がそのあたりで行われること宜しくあって、床几《しょうぎ》場へ納まり、そこで大御所たる道庵が首実検の儀式を行って解散という順序になるのであります。
 かくて、関ヶ原がおそらく慶長五年以来の人出となり、見渡す限りの山々谷々が、諸大名の紋所打ったる旗幟でへんぽんたる有様は、遠く眺むればおのずからその当時を聯想して、人の血をわかし来《きた》る光景が無いではありません。冗談もまた事と所によっては、士気を鼓舞するの勢いとなる、参加するほどの人が、みな多少ともに緊張を感じて行かないのはありませんでした。

         六十五

 今日は、ゆっくり足腰をのばして休み通そうとしたお角さんすらが、この景気に押されてじっとはしておられなくなりました。
 全く素晴らしい景気ですから、ぜひちょっとでも見てあげてください、道庵先生の大芝居がすっかり当っちまいました。
 お供の者から呼び起されて、お角さんがタカを括《くく》りながら、関ヶ原駅頭へ出て見ると、これは確かに一応の眼を拭うて見るがものはありました。
 まず眼を驚かすものは、行手の山々と左右の峯々に立て連ねられた夥《おびただ》しい、諸家の紋所打ったる旗幟《はたのぼり》と馬印であります。
 今時、どこからこんなに夥しい旗幟を借り出して来たのかしらん、お祭礼用として村々が神様の旗幟を蔵って置くように、この辺の民家では、こんなにたくさんの旗幟を用意して置いて
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