っていた覚えがないという道庵は、やっぱり大呑みに呑込んで、
「抵当に取るものがあるなら、矢でも鉄砲でも、匙《さじ》でも薬箱でも、みんな持って行きな、あとで苦情は決して言わねえ」
 この百両の軍用金は、ここでお角さんがお銀様を説いて、ある条件の下に支出させたものであるということなんぞに、道庵は当りをつけようはずもなし、またその辺を心配して、後日に備えようなんて頭は全くありませんでした。

         六十四

 お角さんが道庵に念を押して帰って見ると、お銀様はいませんでした。
 だが、それは驚くほどのものではありません。衣類調度すべてそのままになっており、且つまた今日は立派に、自分は不破の関屋のあとへ行って来るからと、お角さんに断わって出たのだから、そのことは心配しませんでした。
 ここで、お角さんが打ちくつろいで、ホッと一息入れた時に、昨日来のことを考えると、得意のうちにお気の毒を感じたり、お気の毒のうちに得意を感じたりしていることが二つあります。
 その一つは、日頃、強情我慢の、人を人とも思わぬ道庵を、今日という今日はすっかりとっちめて――もうこの後、他人は知らず私の前では、大口を叩かせないことにしてしまったという痛快なる優越感!
 もう一つは、昨晩、あの岡崎藩の美少年が侍《かしず》いている名古屋の御大身の奥方が、昨夜の出来事のために、見るも痛ましく悄《しょ》げてしまっておいでなさること――それは全く災難として同情をしてあげるほかはないが、それにしてもあれほどの奥方が、あんまり失望落胆なさり方が強過ぎる、それは、多年信用して召使った飼犬に手を噛まれたのは、残念にも、業腹にも違いないが、こちらに誰も命の怪我はないし、その悪い奴は覿面《てきめん》に命を落してしまったし、それに盗られたお金も無事で戻ったし、それでいいじゃないの――それ以上、くよくよしたってつまらない話じゃないか、災難はどこにもあるはずのもの、立派な御大身の武家の奥方が、あれではあんまり力を落し過ぎなさる、災難は諦《あきら》める、金も惜しくはないが、惜しいのは系図だとおっしゃる。
 系図――そんなものが、それほど惜しい、欲しいものかしら、系図の巻物なら、誰かに頼んでまた書き直してもらえばいいじゃないか、系図というものがあったところで、お腹の足しになるわけじゃなし――わたしなんぞは災難は災難で、とっちめる奴はこっちからとっちめてやるし、あきらめるところは立派にあきらめて、後腐れを残しませんね――憚《はばか》りながら系図なんてものは今日まで、持ったことも、見たこともないが、それでちっとも暮しに差支えたことなんぞありゃしない。
 系図の行方《ゆくえ》がわかるまでは、先へ進めない。厄介なものだねえ、そんな世話の焼ける系図なんてものは、持参金附きでくれるからと言われたって、わたしなんざあまっぴらさ。
 御大身だの、お武家なんていうものは、自分の身贔屓《みびいき》ばかりじゃ追っつかないで、遠い先祖の世話まで焼かなけりゃ、暢気《のんき》な旅もできなさらないんだから、お気の毒なものさ、そこへ行っちゃ失礼だが、わたしなんぞは……
 お角さんはそれを考えて、お気の毒にもなったり、得意にもなったりしているのですが、どちらかと言えば得意の分が多いので、今日は何かと御機嫌がよろしい。
 それで、昨晩の続きもあるし、道庵先生の芝居なんざあ見るものはないとタカを括《くく》って、今日は一日この関ヶ原の宿で、骨休めに寝込んでしまおうと、女中を呼んで床をのべさせ、ゴロ寝をしてしまいました。
 一方――にわかに大陽気になった道庵先生は、宿の主人を呼び立て、右の軍用金の百両を崩して眼の前に積み上げて、熱をあげはじめました。
 しかし、道庵の催しを聞いてみると、宿の主人としても一肌《ひとはだ》ぬがないわけにはゆきません。口ではかれこれ言っても、いざとなれば、身銭をきって知らぬ土地のために催しをするなんていうことは容易にできるものではない。見たところキ印に近い奇人のようではありますが、稀れに見る奇特な老人でもある。こういうお客様に対しては、土地っ子として一肌ぬがなければならぬ。この宿の亭主が宿役へも沙汰をし、宿役からまた青年団、在郷軍人の類《たぐい》が、いずれも多大の興味を持って参加する。そういう奇特なお客様がある以上は、我々土地っ子として、できるだけの御加勢をして、この催しを意義あり精彩あるものたらしめなければならない。労力はむろん奉仕的ですが、なお道庵先生の百両積んだ傍らへ、志ばかりといって幾らかの寄進につく者さえ出て来る。
 そこで、いよいよ地の理を案じ、土地の故実家にただし、合戦当時の陣形を考証すると共に、武器を一通り集めなければならない。接戦をするわけではないから、得物《えもの》の必要はないが
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